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2005年4月22日 (金)

60年前の沖縄

60年前の沖縄は、今、激戦の最中です。

沖縄戦は、大東亜戦争中、硫黄島を除けば唯一の本土決戦でした。

「本土の防波堤」として、4月1日米軍の上陸から6月23日の玉砕の日まで、実に3ヶ月もの間激闘に次ぐ激闘を繰り広げたのでした。
小禄の海軍壕から、海軍司令官だった太田実中将が最後にあたって本土に打電した電文が残っています。
沖縄県民が軍官に協力して献身的に働いたことを述べた後「沖縄県民かく戦えり。後世特別のご高配あらんことを」と結びました。
ひめゆり部隊、鉄血勤皇隊と、女学生や中学生までが第一線で戦いました。
実に県民の3分の1の20万人が犠牲になったと言われています。これは、日本軍の戦死者20万人と同じ人数です。伊江島では島民の半分が亡くなりました。

今、沖縄はリゾート地になっています。しかし、本当は、沖縄は慰霊の島なのです。南部戦跡には全国の慰霊碑が建っています。本土決戦であった沖縄戦では、全国の将兵が命を捧げているのです。南部戦跡のある南部糸満市。摩文仁の丘から眺める沖縄の海は、青黒く恨みを湛えているかのようです。サトウキビ畑が広がる長閑な風景ですが、米軍は1000隻以上の艦艇を並べて、一平方メートル当たり何十発という砲弾を撃ち込んだのです。

今でも、遺骨が出てくるそうです。全ての遺骨を収集するまで、戦後は終わらない、と真壁の人に切々と言われました。

もうすぐ、呉に大和ミュージアムが完成します。

沖縄に向けて、艦隊特攻を敢行し、雄図空しく中途にて海に消えた大和ですが、その志は、沖縄にあったのでした。
小禄の海軍壕の資料館に、戦艦大和の絵が飾ってあります。そこに次の文があります。
  銘
 「われ期待に欺かざるべし」の信号に不帰玉砕の覚悟を示しつつ沖縄救援急航途次 即ち昭和二十年四月七日 延べ一千機に及ぶ敵航空機群の反復攻撃を迎え激闘利非ず 乗員三千余名と共に恨みを呑んで徳之島東方海域に沈没した戦艦大和の悲願を達成せしめ 併せて戦没乗組員の英霊を慰め且つ沖縄県民と共に国土防衛に殉ぜんとした艦と人とのありしことを此の地を訪う人に永く傳えんとして同志相図り ありし日の戦艦大和の俤を絵画に託し 横須賀走水神社に於ける弟橘媛命の入魂を以て新に大和の艦霊と為し 海上自衛隊機に依って空路その目的とした沖縄に入港させた
 時に昭和五十二年十二月六日 終戦茲に三十三年 同志連名の上奉納する
顕歌 梓弓共に死なめと打ち出でて征きて帰らぬ艦を問はずや 島人歌人 寿枝
                戦艦大和を沖縄に入港させる会同志一同」


また、知覧を始めとする九州各地の特攻基地からは連日、沖縄に向けて特攻機が出撃します。

沖縄戦が、あたかも日本軍による沖縄県民の虐殺であるかのように言われますが、決してそんなことはない、沖縄と本土は一蓮托生であり、沖縄の為に、何千人もの若者が特攻隊として十中零死の攻撃を敢行したのです。

弾雨降る中、住民を北部に疎開させようとしても、軍が居た方が安心だからと帰ってきてしまう人々を保護しながら、苦しい戦いを戦ったのです。

そのことを、忘れることは出来ません。

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