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2005年4月 8日 (金)

「ローマ人の物語」徒然

塩野七生さんの書いた「ローマ人の物語」を、文庫本で読もうと思って、続きが出るのを楽しみにしている。

今、3回目を読み返しているところだが、何度読み返しても面白く読めるということは、この本が本物であることを示していると思う。最近の本は一度読めばそれで充分、というものが余りにも多すぎる。または、一度目を通すこと自体が時間の無駄だったと感じさせるものまである。悪書の出版は殆ど犯罪だと思う。

まあ、言論の自由は大切なので、何を書こうが勝手であり、それを読んで感心する人もいるのだろうから、余り悪口は言わないでおくが、表紙などで興味を引いて、買わされて、読んでみたら駄目だったというのはいただけない。まあ、見る目がないのが悪いので、その本代は、悪いものを見分ける目を培うための勉強代とでも考えるより他はない。アマゾンなどで買えば、それをすぐさま売りに出して、元を少しでも取り戻して、少しはましな本に廻せるかもしれない。以前は古書など二束三文もいいところだったので、これは技術の進歩が本読みに味方していると言ってよいと思う。

「ローマ人の物語」にもどるが、今出版されているのは、初代皇帝アウグスツスの治世までだ。ハードカバーではもうあと一冊で完結というところまで来ているのだが、文庫はまだまだだ。文庫で読もうと決意しているので、ハードカバーは立ち読みさえしていない。最初に読んだ部分は、「勝者の混迷」の上下だった。初めて、グラックス兄弟が何故偉大だったのかがわかった。それから、「ローマは一日にして成らず」を読み、「ハンニバル戦記」を読んだ。「ユリウス・カエサル ルビコン以前」「ユリウス・カエサル ルビコン以後」を読んで、なるほどカエサルとはこういう人物であったか、と合点が行った。

考えさせられるところが随所にあることが、この著書の魅力だ。モンタリネの「ローマの歴史」を読んで、それと「パクス・ロマーナ」を読み比べて、ユリアに対する評価というか読みが格段に差があることに気付いた。モンタリネの記述では単なるあばずれ女としてしか記されていないユリアの凶状を、同じ女性だからわかることもあるのかもしれないが、皇帝アウグスツスの血統への執念がもたらしたものと見たのは卓見だと思った。

優れた作者に共通する、人間存在への深い理解と、暖かな眼差し、透徹した判断というものが全編を貫いている。

今、読み返している部分は、「ハンニバル戦記 中」のカンネ会戦の後のところだ。ローマが強敵ハンニバルに完敗を喫した後、この国難をどう乗り切っていったのか、という部分に入っていく。浮き足立つことなく、内攻して自滅することなく、敗北は敗北として受け止め、己を知り敵を見定め、今の現状からどう活路を切り開いていくのか、決して夢を見ることなく、着実に実行していったローマ人の姿を描いている。

僕の興味は、何故、このように現実的で尚且つ実力もあるローマが、後年、キリスト教化したのか、という点である。

山本七平氏が、「禁忌の聖書学」に、同じ疑問を挙げて、解らないと記していた。

これは、同じ時期に、儒教が漢帝国の国教化していったことと似ているのか、違うのか。このような比較は単なる興味を超えて、関心がある。

宗教と政治。現代は、むしろ古代ローマに帰りつつあるようにも思われる。しかし、政治思想が代替宗教だとすれば、その弊害はむしろ宗教そのものの政治に及ぼした害以上のものがあるかもしれない。

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