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2005年4月 8日 (金)

日本人の神観について「古事記傳三之巻」(本居宣長)より―その2―

さて凡て迦微とは、古御典等に見えたる天地の諸の神たちを始めて、其を祀れる社に坐す御霊をも申し、又人はさらにも云ず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其餘何にまれ、尋常ならずすぐれたる徳のありて、案畏き物を迦微とは云なり。

【すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功しきことなどの、優れたるのみを云に非ず。悪きもの奇しきものなども、よにすぐれて可畏きをば、神と云なり。さて人の中の神は、先ヅかけまくもかしこみ天皇は、御世ゝゝみな神に坐スこと、申すもさらなり。其は遠つ神とも申して、凡人とは遥かに遠く、尊く可畏く坐シますが故なり。かくて次ゝにも神なる人、古へも今もあることなり。又天ノ下にうけばりてこそあらね、一国一里一家の内につきても、ほどほどに神なる人あるぞかし。さて神代の神たちも、多くは其代の人にして、其代の人は皆神なりし故に、神代とは云なり、又人ならぬ物には、雷は常にも鳴ル神神鳴リなど云へば、さらにもいはず、龍樹霊狐などのたぐひも、すぐれてあやしき物にて、可畏ければ神なり。木霊とは、俗にいはゆる天狗にて、漢籍に魍魎など云たぐひの物ぞ。書紀舒明ノ巻に見えたる天狗は異物なり。又源氏物語などに、天狗こだまと云ることあれば、天狗とは別なるがごと聞ゆめれど、そは當時世に天狗ともいひ木霊とも云るを、何となくつらね云るにて、實は一つ物なり。又今俗にこだまと云物は、古へ山彦と云り。これらは此に要なきことどもなれども、木霊の因に云のみなり。又虎をも狼をも神と云ること、書紀萬葉などに見え、又桃子に意富加牟都美命と云名を賜ひ、御頸玉も御倉板挙神と申せしたぐひ、又磐根木株艸葉のよく言語したぐひなども、皆神なり。さて又海山などを神と云ることも多し。そは其ノ御霊の神を云に非ずて、直に其ノ海をも山をもさして云り。此らもいとかしこき物なるがゆゑなり。】


まず、「かみ」とは、古典などに見える天地緒神をはじめ、それを祭る神社などの御霊をも指し示す言葉であり、更には鳥やけだもの、木や草、海や山など、それがどのようなものであっても、普通ではなく、特別に異常に優れたところがあって、「畏」を抱かせるものを「かみ」と言い習わしてきた、というわけです。

 その優れているという意味は、尊貴であることや、大きないさをしがあることなどを意味するとうだけでなく、悪いものでもあやしいめずらしいものも、世の中には普通見られない「畏」なものを、「かみ」と言っているのだというわけです。つまり、「かみ」に善悪はない、ということです。

 また、人の中にも「かみ」と称される人がいて、その筆頭には勿論「天皇」がおられ、代々の天皇陛下は全て「かみ」であられることは言うまでもないことだ、と宣長は言っています。これは当たり前のことだと言っているその口振りには何の無理もありません。ここでいっている「かみ」とは、「神」でも「GOD」でもなく、日本人にとっての「かみ」なわけです。このことをしっかりと日本の知識人が踏まえてさえいれば「天皇はかみだ」という言葉をアメリカ人が「エンペラー イズ ザ ゴッド」と誤解したことを鋭く指摘し嗜めればよかったのですが、明治以後あるいは敗戦後の日本の知識人には、この見識は地を払ってしまっていたことは、かえすがえすも残念なことであります。

 「かみ」と申す人は、昔も今もあることで、家のうちにも「山の神」(妻たる女性)がいるものです。宣長は、神代の神たちも多くはその代の人のことであり、皆が神であったから、神代といったのだ、というのだ。更に、人でなくても、雷、龍、樹、霊、狐などであっても、「すぐれてあやしきもの」であって「かしこ」ければ神なのだった。天狗や魍魎などもその類ということになります。

 木霊、山彦もそうであり、虎や狼を神と言うことも書紀万葉に見えている。桃も神であり、首にかけた勾玉も神である。「磐根木株草葉」がよく言葉をしゃべったというのも、みな神なのだということでしょう。海や山などを神ということも多くある。その場合には、神が宿っている海、山、という意味ではなく、海そのもの、山そのものが神なのだというわけだ。これらも「いとかしこきもの」であるがゆえに。

 こうみてくると、「八百万の神々」とは、およそありとあらゆるものが神である、ということになってきます。これで「かみ」という言葉を定義しようとしても、とても出来るものではない、と宣長が冒頭に述べるのもムベナルかな、といえましょう。

 しかし、日本人ならば、感覚として、何となく解るのではなかろうか。勿論、信じているのか、と正面切って聞かれれば、いえとんでもない、と否定するだろうが、そう感じることを理解出来る人はまだまだ多いと思われます。試みに各人己の胸に問うてみることにより、それを知ることも出来るかもしれません。

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