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2005年4月 6日 (水)

雑感

営業職などでは恐らく膨大な人と会うのだろう。人間が鍛えられるわけである。
今日は10人位に会うだけでも、結構疲れた。

人が一生に会う人の数は精々2万人が限度で、大体見知った同士となれる人は数千人が限度であろう。(何かで読んだ数字だが、確度のほどは定かではない)

人が切実に、付き合う人の数というのは、存外少ないものだ。真剣に愛したり、憎んだりする相手というのはどうしたって限られる。起きて半畳寝て一畳という俗諺は、確かに人間という存在の在り様を端的に示していると言えようか。

間接的に知られる人というのは、これは際限がないかもしれない。アメリカの大統領ともなれば、世界の5分の1位の人は知っているかもしれない。宗教に関する人物ならばイエスキリストや、マホメットなどは、少なくとも現在生きている人類の間でも10億人単位の人々に知られていることは間違いないであろう。

しかし、凡人には、そんな気遣いは無用である。やがて死んで100年もしないうちに忘れられるのがオチだ。それでも、切実に生きたということそのものには何がしかの意味があるであろう。少なくとも本人にとって、掛替えのない人生であるはずであり、そのように生きられれば、他の人がどう言おうとも、以て瞑することが出来るのだろう。

この春先は、知っていた人が次々と亡くなり、古風な言い方をすれば、人生の無常を感じた。

遠藤周作は、「沈黙」の中で、日本人は、無常の中に安住できる民族だ、という意味のことを言っていたが、芭蕉が、月日は百代の過客にして、行き交う人もまた旅人なり、と述べた言葉も結局は無常に生きる人の姿を活写したといえよう。人生は仮の宿りに過ぎない、ただし、その仮の宿りを精一杯生きるのもまた人としての務めであるという感覚は、恐らくは日本の庶民の道徳感情ではなかったろうか。

精一杯生きる、という意味は、誠を尽くす、ということだろう。誠とは、まごころということであり、そのままの、ありのままの心ということだろう。こういうと、不道徳に陥っても問題ないと思われそうだが、人間の心というものが、本然の姿では実に自然に道にかなった生き方を求めるものである、という信頼を持つことも出来たのではなかろうかと思われる。

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コメント

おはよう御座います。
まさに橘兄らしいご意見で、私たち日本人の原点を言い表したものと感服しました。

私自身「百術不如一誠」(ひゃくじゅつは、いっせいにしかず)を座右の銘に、愚直に生きたいと考えています。

為るか為らぬか!ただまごころを尽くすのみ!
それが生きるということ、生かされているということだと考えています。

投稿: 山の不動 | 2005年4月 6日 (水) 午前 07時15分

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