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2005年4月 5日 (火)

書店徘徊の楽しみ

 小学生の頃から、書店を徘徊するのが楽しみだった。それも大きな書店であればあるほどその楽しみは大きいのだ。ほぼあらゆる分野のあらゆる本を手にとっては眺めた。手にとらなくても背表紙を辿るだけでも不思議と心躍った。

 東京なら神保町の古本街や書泉グランデ、三省堂などはお気に入りだった。高田馬場の古本市や新宿の京王プラザなどでの古本市などに足を運ぶことは心躍るときだった。

 今も、近くに大きな書店がある。週に一度はぐるぐると歩くようにしている。様々な書物が語りかけてきてくれるようで楽しい。そんな中で、出会うべくして出会うような本がある。そんなときは本当に嬉しい。

 ファウスト的な願いを持ったことがある。世の中にある全ての本を読破したいという、儚い夢だ。全知全能は物理的な制約を宿命的に負う人間には到達することの出来ない境地である。何が真理であるのか、ということを求めたとき、それを本当に見定めるためには、全ての書を読まねばならぬ、しかしそれは不可能であるから、人間には真理というものは解らないものである、ということを考えたことがある。更に、自分が今正しいと信じていることが、本当は全く間違ったことであるのかもしれない、それを突き止めることは不可能なのだから、自分が正しいなどと思うことは金輪際出来ない、という考えに陥ったこともある。これも儚い夢である。
 人間は、何かを信じることによって、かろうじて生きることが出来る。何も信じない、という人に限って余りにも多くの信仰を持っているものだ。ある意味、ものを疑うことができるのは本当に、自覚的に信じることの出来る人なのではなかろうか、と思う。
 西洋文明、あるいはイスラム文明が、全知全能の神を持ち、その前に絶対服従するという信仰を持ったことは、人間という余りにも制約の多い存在が、その限定を打ち破るための一つの方法だったのかも知れない。全知全能の神というものが存在することを前提にしなければ、人間はどこまでも傲慢になれる。それは愚かな蛙のように腹を膨らませて、やがて自分で破裂してしまうしかないのだろう。これは、ある意味、信仰を失った現代科学技術文明の姿ではないか。

 全知全能、という思想は、一体セム族の宗教の特異な産物だったのだろうか。絶対、という思想とも違う。

 書店の書棚の列の間を歩きながら、背表紙を眺め、色々なことを思う。勿論、ここにある書物は、全世界で出版されているもののごく一部に過ぎない。たとえこの書店の全ての書を買うことが出来て、読むことが出来ても、全体からすれば微々たるものに過ぎないだろう。

 だから、学者というものは、自らの分野を設定して、更にテーマを創設し、それに絞って資料としての活字を探すのだろう。そして、そのテーマに限っていえば、それを読破することも不可能ではなくなる。第一人者にもなれるのだ。だからと言って、それが正しいか間違っているかということに対する、最終的な判断を下すことが、果たして出来るのだろうか。限られた人間の知性によって、そんなことが可能なのか、といった問いは残る。

 そんな不可知論ばかりで生きていくことは出来ない。だから人間は、信仰によって生きることを得るのだ。信じるということに真面目に向き合えないものは、ものを真面目に考えることも出来ない。そんな過激な言葉さえ浮かんでくる。

 そして、信仰、あるいは直観、といったものは、やはり、この限られた人間の知性の世界を超えたところからやってくる、ということを、承認する以外にない。直観などといったものは信じられない、自分は科学的に論証されたことしかしないのだ、という人がいたなら、その人は、決して生きることが出来ないだろう。なのに生きているということは、どこか根本的なところにおいて自分を欺き、他者を欺いているのだろう。こうした科学信仰のたちの悪さは、信仰など軽蔑している人に起る病だからである。

 書店を巡りながら、そうした病にかかった本にもたくさんお目にかかる。そうした本にはなるべく近づかないようにしながら、直観に導かれた、優れた人の言葉に出会うことは、本当に楽しいことだ。

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