« 遊女幻想 性に関する論考1 | トップページ | 日本人の神観について「古事記傳三之巻」(本居宣長)より―その4― »

2005年4月 9日 (土)

子規 〜その10〜 子規の横顔 〜明治32年の短歌〜

なぜか、子規は横顔として知られている。

siki_yokogao

さて、明治32年の歌を見てみたい。

   絵あまたひろげて見てつくれる

なむあみだ佛つくりがつくりたる佛見あげて驚くところ
もんごるのつはもの三人二人立ちて一人すわりて楯つくところ
岡の上に黒き人立ち天の川敵の陣屋に傾くところ
あるじ馬にしもべ四五人行き過ぎて傘持ちひとり追い行くところ
木のもとに臥せる佛をうちかこみ象蛇どもの泣き居るところ
うま人の裾濃のよそひ駒たてて遠くに人の琴弾くところ
かきつばた濃き紫の水満ちて水鳥一つはね掻くところ
いかめしき古き建物荒れはてて月夜に獅子の壇のぼるところ
屋根の無き屋形の内に男君姫君あまた群れゐるところ
看板にあべかは餅と書きてあり旅人二人餅くふところ

 病床に臥せる子規にとって、また写真などそれほど普及していなかった当時にあって、絵を見ることは、世の中とのつながりを確かめる、大切なよすがであったろう。
 それにしても、元々絵画的な描写に長ける子規にとって、絵を見てつくる歌は、見たままを詠むものであり、それでいて人を飽きさせないものを持っていた。「ところ」という最後の結句を揃えて、全体で大きなリズムを作り出しているが、絵を広げて楽しむ子規の姿が浮かんでくるように思われる。

 さて、またこの頃の子規は、歌会を開いて和歌の研究に余念がない。

   三月十三日秀真へ
明日は君だち来ます天気善くよろしき歌の出来る日であれ
我が庵に人集まりて歌よめば鉢の菫に日は傾きぬ

 また、友との交流も盛んである。友へ送る歌が幾つも載せられてある。また、かえした歌も幾つもある。歌のやりとりをすることで、歌本来の「心をつなぐ」というはたらきを実際に試みているかのようである。

   秀真を訪ひし後秀真におくる
牛を割き葱を煮あつきもてなしを喜び居ると妻の君にいへ
我が口を触れし器は湯をかけて灰すりつけてみがきたぶべし

 次のような歌はまた楽しい。電報のようでもある。

   三月十三日麓へ
十四日お昼すぎより歌をよみにわたくし内へおいでくだされ

 また、歌会でつくった歌を選ぶ作業だろうか。秀真氏に依頼するに当たり、和歌で注意を促している。これなどは、「写生」という子規の作歌態度を示したものといえるかもしれない。そしてまた、このように歌によって伝えられたということは、歌会の中で「写生」ということはよく話されていたのであろう。

   四月二十四日秀真へ(四首のうち二首)
青丹よし奈良の佛もうまけれど写生にますはあらじとぞ思ふ
天平のひだ鎌倉のひだにあらで写生のひだにもはらよるべし

 そして、この時期、実朝への思いは更に強くなっているように思われる。

   金槐和歌集を読む
人丸の後の歌よみは誰かあらん征夷大将軍みなもとの実朝
大山のあぶりの神を叱りけん将軍の歌を読めばかしこし
路に泣くみなし子を見て君は詠めり親もなき子の母を尋ぬると
はたちあまり八つの齢を過ぎざりし君を思へば愧ぢ死ぬわれは
鎌倉のいくさの君も惜しけれど金槐集の歌の主あはれ

 この頃既に「歌よみに与ふる書」を世に出し、世人を驚かし、かつは物議をかもしながら、論争に挑み、一歩も引かずに戦っている。

|

« 遊女幻想 性に関する論考1 | トップページ | 日本人の神観について「古事記傳三之巻」(本居宣長)より―その4― »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 子規 〜その10〜 子規の横顔 〜明治32年の短歌〜:

« 遊女幻想 性に関する論考1 | トップページ | 日本人の神観について「古事記傳三之巻」(本居宣長)より―その4― »