« 子規  〜その7〜  「歌よみに与ふる書」にふれる(2) | トップページ | 子規 〜その9〜 「歌よみに与ふる書」にふれる(4) »

2005年4月 1日 (金)

子規 〜その8〜  「歌よみに与ふる書」にふれる(3)

前稿の続きになる。子規を読む意義について、

「第二はもちろん歌についての表現力、批判力を子規から学ぶためである。子規の歌論俳話は、詩歌という圧縮された形の中で、言葉についての徹底した修練をさせてくれる。言葉は学問の基礎である。われわれは古今東西万人の情意を何によって知ることができるだろうか。主として言葉によって把握し判断するほかはない。だから、学問などといわなくても、われわれの生きること自体が、主として言葉によって行われている。したがって言葉の修練が人生の基礎となる。子規の歌論は歌と作者の思想との関係を、言葉づかいに密着して精密に論究したもので、これによって、われわれは日本語の基礎的な微妙なはたらきを知ることができる。だから、それが学問、殊に人文・社会科学の基礎的修練としての言葉の研究となるのである。日本語の研究なくして外国語の微妙な表現がわかるはずはない。歌をつくることの意義については、私は人生的に非常に高いものと評価しているが、それについては他の書物にのべてあるので、ここではくり返さない。(中略)子規歌論が歌についてだけでなく、広く学問の基礎となった一例をそこに見ることにもなろうかと思う。」

ここで述べていることは、極めて重大な指摘だと思う。

「言葉の修練が人生の基礎となる」このことは強調してもしすぎることはないのではないか。
誰でも生きるために言葉を使う。言葉なくして一日たりとも生きることは出来ない。

新約聖書ヨハネ伝冒頭の余りにも有名な一句「初めに言葉あり、言葉は神なりき。万の物これによりて成り、成りたるものこれによらで成りたるものなし。」とあるが、これに通ずるものであるかもしれない。

これは、単なる類似の言葉を連ねたわけではない。言葉というものの不思議な性質を、それなくしては生きられない人間という存在について、語った言葉なのである。こういうのも言葉による。

余り抽象的になってはいけない。子規が排撃した理屈というのは、抽象的、観念的で実態を伴わない架空の観念であった。

余談になるが、今の日本には、この抽象的、観念的で実態を伴わない空想、というより妄想が幅を利かせているように思われる。
このことは致命的な問題になると思われるが、具体的な問題については別に論じたいと思う。

何れにせよ、子規の歌論を学ぶことによって、言葉を修練する方法論を学ぶことが出来る、ともいえるかもしれない。これは、あらゆる学問の基礎となることである。日本人はすべからく、子規に学び、己の本然に立ち返って、和歌を詠むべきである。

|

« 子規  〜その7〜  「歌よみに与ふる書」にふれる(2) | トップページ | 子規 〜その9〜 「歌よみに与ふる書」にふれる(4) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 子規 〜その8〜  「歌よみに与ふる書」にふれる(3):

« 子規  〜その7〜  「歌よみに与ふる書」にふれる(2) | トップページ | 子規 〜その9〜 「歌よみに与ふる書」にふれる(4) »