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2005年4月10日 (日)

日本人の神観について「古事記傳三之巻」(本居宣長)より―その4―

大かた一むきに定めては論ひがたき物になむありける。

【然るを世人の、外ツ国にいはゆる佛菩薩聖人などと、同じたぐひの物のごと心得て、當然き理と云ことを以て、神のうへをはかるは、いみじきひがことなり。悪く邪なる神は、何事も理にたがへるしわざのみ多く、又善キ神ならむからに、其ほどにしたがひては、正しき理のままにのみもえあらぬ事あるべく、事にふれて怒り坐る時などは、荒びたまふ事あり。悪き神も、悦ばゞ心なごみて、物幸はふること、絶て無きにしもあらざるべし。又人は然はえ知らねども、そのしわざの、さしあたりては悪しと思はるる事も、まことには吉く、善しと思はるる事も、まことには凶き理のあるなどもあるべし。凡て人の智は限りありて、まことの理はえしらぬものなれば、かにかくに神のうへは、みだりに測り論ふべきものにあらず】

 大体こういうものだ、などと、一定の枠組みに押し込めることはむずかしいのが「かみ」というものなのだ、と宣長は言う。

 それなのに、世間の人は、外国の仏や菩薩、聖人などというものと同じ類のものだと勝手に勘違いして、それらと同じ尺度で「かみ」のことを推し量ろうとすること自体が、大変な誤りなのだ。悪くて邪まな「かみ」は、何といっても理屈や理性などで活動しやしないし、善い「かみ」であっても、正しい道理の通りにばかり従っているというわけでもなく、事によっては怒ってり、荒れ狂ったりするのだ。理屈だけで通用するような単純な相手ではないわけです。悪い「かみ」であっても、悦んでいるときには心が和んで、幸を恵んでくれることも全くないわけではない。また、凡人には知ることが出来ず悪いことが起ったと思っても、よくよく時が経って振り返ってみれば吉きことであったということもあり、善いことだと思っても、よくよくつきつめていくと悪いことにつながっていたりすることもあるのだ。人間の知力には限りがあって、本当の道理というものは知ることが出来ないものであるのだから、「かみ」について、あーでもないこーでもないと、みだりに推し量って議論するものではないのだ。

 宣長の言うことは、実に、庶民の知恵的なことのように聞こえる。そして、「かみ」との付き合い方については、ここに述べてあるとおりに、昔からしてきたのだということは紛れもない事実なのだと思われる。

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