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2005年4月 9日 (土)

日本人の神観について「古事記傳三之巻」(本居宣長)より―その3―

抑迦微は如此く種々にて、貴きもあり賤きもあり、強きもあり弱きもあり、善きもあり悪きもありて、心も行もそのさまざまに随ひて、とりどりにしあれば、

【貴き賤きにも段ゝ多くして、最賤き神の中には、徳すくなくて、凡人にも負るさへあり、かの狐など、怪きわざをなすことは、いかにかしこく巧なる人も、かけて及ぶべきに非ず。まことに神なれども、常に狗などにすら制せられるばかりの、微き獣なるをや。されど然るたぐひの、いと賤き神のうへをのみ見て、いかなる神といへども、理を以て向ふには、可畏きこと無しと思ふは、高きいやしき威力の、いたく差ひあることを、わきまへざるひがことなり。】


 そして、こうなってくると、「かみ」というものには、様々な種類があるので、貴いものもあり、賎しきものもあり、強いものもあり、弱いものもあり、善なるものも悪なるものもあるということになってきます。その神の心も行いも、それらの様々な種類に従って、とりどりのものであるのだ、と宣長はいうわけです。

 最も賎しき神の中には、凡人にも劣るものがある、という指摘は面白いことです。賎しいというのは別に身分のことではありません。ここでは狐のような「怪しきわざをなす」ことがあっても本来獣であれば人間には劣るのだ、という認識でしょう。しかし、こうしたうわべだけを見て、あらゆる「かみ」を理屈で撃退しようと思うのは、誤りであり、その威力には大変な差があるということを知らない偏見だというのです。信心など迷信だ、という人は昔もいて今もいるが、恐れを知らない所業に出ることもまた同じであったでしょう。しかし、やがては罰があたるぞ、というのも、庶民の素直なる心の中に生きていた感覚であったと思われます。傲慢を戒めた言葉であったのでしょう。

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