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2005年3月 9日 (水)

英語の勉強をはじめて思うこと

TOEICの試験を受けます。
英語は昔から苦手で、大学受験の時も、英語が大きなネックになりました。
苦手意識が先に立って、コンプレックスみたいになっていました。

最近、物を考える上でも、とにかく英語の論文や資料などを読んで情報を取ることが出来たらどれほど世界が広がるだろうか、ということをつくづく思うようになりました。

それで、昨年末からぼちぼち英語の勉強を始めました。直接のきっかけは、シュリーマンの「古代への情熱」を読んだことでした。この語学の天才の熱気に中てられたような感じです。

とにかく、今の自分の英語力を試すのには、TOEICが一番いいということで、受けることに致しました。3月27日に開催される分です。730点以上が海外勤務条件というような基準もあるようですが、恐らく、僕の今の実力は200点〜300点取れればいい方だろうと思います。とにかく先ずは500点クリアを目指し、ゆくゆくは800点台をきちっと取れるようになりたいと思っております。

英語をやるということは、一つにはものを考える別の視点が欲しいということもありました。これは、晴山さんという方が述べていたことでもありますが、考える道具としての英語、という受け止め方です。例えば、論語にしても、英語の翻訳で読むと、漢文の書き下し文やその現代語訳とはまた一味違った感じがあるということに気付かされるということです。恐らくは、様々な言語で、少しづつ違った見え方があるのだろうと思われます。

それらも全て国語力を高めるために収斂させて行くことによって、明治に正岡子規が短歌革新をやった基本的な動機である、国語の力を高める、という目的にもつながってくるのだと思います。

勿論、子規のように、その後の国語の展開に基本的なインパクトを与えた偉大な先人に自らをなぞらえるような不遜は犯すことは出来ませんが、子規の志は、国語を愛し、国語の生命力を信じ、その中に生きる全ての人々が等しく持ち合っているものであってもおかしくはないと思い、その驥尾に付して、志だけは持ち続けたいと思う次第です。

ここで、「国語」と言った場合には、Mother Tange という意味で、母国語の事を指します。日本人の母国語は当然のことながら日本語ですが、「日本語」という外から見た形で形容するのは、客観的なようでその実、最も大切な「内なる感覚」を喪ってしまうのではないかと思われ、「国語」という、その言葉の中に生きるものにのみ許された言葉を使いたいと思うわけです。

今、義務教育の学校において、「国語」ではなく「日本語」と表記していることが判明して問題になったことがあります。単なる言い方の違いではないように思います。大学においても、かつては「国文学科」であったものが「日本文学科」となったりしているようです。「国文学」と言った場合には近代以前のもののみをさすようなニュアンスを持ったりするようです。確かに、外国人による日本語の作品が増えつつある中、必ずしも日本語を母国語としない人の文学が日本文学の世界に入ってきているのかも知れません。しかし、その大部分は直接日本語で書かれたというよりもまだまだ翻訳されたものであることが多いように思います。翻訳されたものであっても例えばラフカディホ・ハーンのように既に明治日本の文学を語る上で独特な地位を占めている人もあります。現代でも例えばC・W・ニコル氏は「勇魚」などの作品で日本人を主人公にした大作を著しています。そういうことをひっくるめて考えても、やはり現代文学も含め「国文学」というべきではないかと思います。そう呼べるのは、日本語を母国語とする国民だけなのですから。

これは、発展させれば「国家論」につながっていきます。先年、若くして亡くなられた碩学、坂本多加雄氏は、「国家学のすすめ」において「国家とは、ともすれば想定されているように、私たちの「外側」にあるものではなく、私たちの「内側」に「実在」するものだということである」と、指摘しています。晩年の乃木大将が、学習院の生徒たちに対して、「日本の国はどこにあるか」と質問したときに、色々な答えがあるのを聞いた後、「日本の国は心の中にあるのだよ」と諭されたというエピソードがありますが、「国家」を考える上で、忘れてはならない視点が、この「内なる国家」というものであると思われます。

「国語」もその通りで、自らのうちにあるものとして、つまり生命としての言葉を実感するとき、そこに「国語の生命」というものもまた発現するのではないか、そう思われてなりません。

符牒としての言葉というものは確かにあると思われますが、生命としての言葉というものがその根底になければ、言葉そのものに対する信頼というものも持つことは出来ないのではなかろうかと思われます。このセオリーは、普遍的なものとして論ずることも可能でしょう。キリスト教圏においては、ヨハネによる福音書の冒頭に「始めに言葉あり、言葉は神なりき、よろずのものこれによりてなり、これによらでなるものなし、これに命あり、これは人の光なりき」とあることによっても確認できるでしょう。イエスは「口より入るものは、あなた方を汚すことはできません。口から出るもの(即ち言葉)が、あなた方を汚すのです」と述べました。イスラム教においては、聖典であるコーラン(クラーン)は、アラビア語のもののみが本物であり、各国語訳は参考書に過ぎないことを明確にしています。これも、アッラーの言葉がアラビア語で書かれたそのことによるわけで、翻訳では神の真意は伝わらないということなのでしょう。仏教でも、その例を挙げることは難しくないでしょう。

つらつらと書いてしまいましたが、要するに今、日本人自身の国語の力が大変衰弱していると感じているわけです。

それに反して、英語は国際語として、隆盛を極めています。勿論、他の国際語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、(ロシア語)、(中国語)などの世界も厳然として存在します。
それらの言葉に匹敵する力を秘めていると思われます。日本語はその連続性、その受容性など極めて柔軟で生命力に富んだ言語であると思うのです。そして、そこには偉大な価値が秘められていると思うのです。韓国人の呉善花氏は、日本文化を巡る評論活動で活躍されていますが、彼女は直接日本語で示唆に富んだ論文を次々と生み出しています。「日本の文化はアジアとも違うし、欧米とも違う。独特な要素を抱えていて、日本はそこに根を持って一個の自立した文明を展開してきた国」であるという指摘をされていますが、ハンチントンの「文明の衝突」の中でも、日本文明は、西欧文明や中国文明などと対等の独立した一個の文明として論じられており、ある意味、日本人自身が一番日本文明の独自性や特性について無自覚なのかもしれないわけです。

日本文明の核にあるものは言葉であると思われます。その意味でも、国語の生命力を回復せしめることが大きな意義があると思うのです。
そのためにも、他言語、特に世界を席捲している英語というものを知ることは必要であり、また不可欠なことのように思われるのです。

単なる英語の勉強を始めた程度で、何を大げさな、と、10人いれば10人からの非難の声が聞こえてきそうです。
しかし、決して単に与太を述べたつもりはありません。僕という存在の小さなチャレンジについては憫笑して頂き、しかし、国語の生命力の回復という問題提起については、どこか心の隅においておいて頂きたいと思う次第です。

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コメント

ブログ開設おめでとうございます。
昨年11月の時は本当にありがとうございました。
一緒にお酒を頂いて橘さんのお話を聞いた時、ここで語られているようなことを信条とされていると仰っていましたね。
「本に触れるなら著者の原本を読まないと意味がない」と。
それを実行されるとは本当に凄い事です。
また江田島では色々と豊富な知識を授かり、いまでもあの時の思い出が蘇ります。

実は帰りの飛行機の搭乗手続き場所で高校時代の恩師に出会い(高校時代の親友の父でもあります)、江田島に行ってきたんですよと言いましたら、やはり戦前の方ですね、たいへん驚いていました。
江田島の学校に入るのは当時の本当の秀才しかいなかったんだよ・・・とその先生も仰っていました。

また叔父の家でもたまたま江田島の話をしましたら、やはり驚いておりました。
こうして戦前生まれの日本人なら江田島と聞けば凛としたものを感じ取ることができるのに、私も含めましてその反応は今の若い方々には失われてしまっています。

おやじに江田島のパンフレットを見せ人間魚雷の話しとか大和の大砲の話とか色々したんですが、やっぱり戦前の日本人は江田島と聞けばとにかく話が盛りあがります。本当に私にとっては新しい人生の一面を作る事ができたわけです。
いつか機会があったら子供達にも江田島へ行かせたいと思っています。

真の保守系のブログとして橘さんの柔らかな語り口でどんどん憚らずに発言してください。
蘭ちゃんのところにも是非リンクするように声をかけておきます。
いや私よりも橘さんが直接連絡をとられる方が宜しいですね。

以後楽しみに拝見させていただきます。

投稿: あきんど | 2005年3月10日 (木) 午後 03時51分

おめでとう御座います。今後の益々のご活躍をお祈りいたします。

ところで橘さん。私のところにリンクしてもいいですか?もし宜しければ「了解!」だけで結構ですのでお返事ください。^^

投稿: 山の不動 | 2005年3月 9日 (水) 午後 07時43分

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