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2005年3月 5日 (土)

「新約聖書」を読む マタイによる福音書 第9章、10章

第9章にいたって、はじめてマタイという人が出てくる。
恐らく、(私は、詳しくキリスト教を知らないので、間違っていたら訂正するが)このマタイ伝を顕した人のことだろう。

彼は、収税吏 tax collector の一人として登場する。
イエスは収税所に座っているマタイという男を見て、「Follow
me」と一言声をかける。彼は立ち上がってイエスに従う。
イエスの弟子取りは、大体このようである。 (9)

この章の1から8までのエピソードは、律法学者が、イエスに対して疑問を抱くところである。

イエスが中風患者を癒した。その部分は次のように書かれている。

When Jesus saw their faith, he said to the paralytic,
"Take heart, son; your sins are forgiven."

気付くことは、イエスは常に「信仰 Faith」を見ていることだ。
「信仰」のないところでは、イエスであっても「奇跡 miracles」を起こすことは余りない。

ここで、律法学者 the teacher of the law が思ったことが、やがてイエスを十字架に連れていくことにつながると言っていいだろう。
彼は思った。
This fellow is blaspheming.

この「blasphem」という言葉は、辞書で引いてみると次のようである。


a.. blaspheme
【他動】 冒とくする
【発音】blaesfi':m、【@】ブラスヒーム、ブラスフィーム、【変化】《動》blasphemes

| blaspheming | blasphemed、【分節】blas・pheme
a.. blaspheme against God
神を冒とくする
a.. blasphemer
【名】 冒とく者
a.. blasphemous
【形】 冒とく的な、不敬{ふけい}な◆名詞 blasphemy(神の冒とく)の形容詞形。irreverent や impious よりもはるかに重大で侮辱的な態度・行為
を表す。かつては教会から破門されるほどの強い意味を持っていた。現在では宗教以外の事柄に関しても用いられるが、非常に強い意味合いを持つことには変わりない。

以上、極めて強い意味で、「神を冒涜する」という意味の言葉である。


「Fellow」は、「仲間」とか「やつ」など、かなり親しい間で使われる人をさす言葉だが、聖書では、かなり突き放して見下した感じで使われているように感じる。ここでは、「この人は」となっているが、「この者は」のような感じの方が語感として合うかも知れない。

なぜ、神を「冒涜」していると思ったのか。それは、
「sin are forgivn」という言葉にある。

「罪を許す」権能は、唯神にのみある、ということであり、人の子が「罪を許す」などということは、神の権能を侵す者である、というのが、この律法学者の思念であったろう。

ところがイエスは、律法学者のそんな思いは直ぐに見抜く。
イエスからすれば、どうでもいいことなのだ。だから、次のように言った。
Which is easier: to say, 'Your sins are forgiven,' or to say
'Get up and walk.'?
「どちらが簡単だと思いますか。「あなたの罪は許された」と言うのと、「起きなさい、そして歩け」と言うのと。」
But so that you may know that the Son of Man has authority
on earth to forgive sins...
「しかし、そのことがあなた方に分かるように、人の子は地上において罪を許す権威を持っているということを・・・」

つまり、イエスは、わざと律法学者たちの前で、彼らの神経を逆撫でするような言葉を使ったのだ。
それは、イエスにとって、つまり、彼の宗教にとっての重要な事項を顕すことであったろう。

Son of Man が、 forgive sins という authority を持つということを。

この一事が、重大な宗教改革宣言でもあったろう。

神の権能を人の子が持つことを宣言したのだから。そしてこれは人の子=イエスのものとしたのだけれど、確かに、聖書では人の子といえばイエスであり、常に単数形で使われることばでもあるのだが、この言葉自体は、人間の子、つまり人類そのものの意味になる。

この解釈は、イエスを通じてしか救われないとするキリスト教の恐らくは基本となるところであろうけれど、イエスの業は、イエスだけのものでないことは、イエス自身が証明しているとも言える。それは「信仰の力」ではあっても、イエスという神の子にのみ与えられた権能ではないのだ。

それにしても、イエスはあえて挑発をしているとしか思えない。

この章では、イエスが行った「挑発」の数々を記している。

9から13まで、イエスは、収税人や罪人と席を共にして食事をする。どちらも嫌われ者であることは言うまでもない。パリサイ人(ひと) Pharisees  は、イエスの弟子に疑問を
ぶつける。それに対してイエスはこたえる。
It is not the healthy who need a doctor but the sick.
「医者が必要なのは健康な人ではなくて病人である」
そして、ここでも挑発している。
But go and learn what this means:'I desire mercy, not
sacrifice.'
「”私が願うのは、慈悲・憐れみであって、生贄(いけにえ)ではない”ということの意味を学んできなさい。」
この「sacrifice」は、基本的には否定的な意味ではない。「犠牲」は尊い行為として一般に知られており、この時代にあってもそうであった。しかし、パリサイ人に向かって「生贄」よりも「憐れみ」を(神が)願っている、という言葉、これは恐らく、旧約聖書の何処かに記された言葉なのだと思われるが、これを突きつけたのは、恐らくは、「生贄」に熱心で、「慈悲」に欠けていたパリサイ人への痛烈な批判だったのだろう。

イエスの振る舞いは、イエス自身の出身母体とも言えるパプテスマのヨハネの弟子たちから見ても疑問のあるものだった。
14から17まではそのことが記述されている。
イエスは必ずしも断食を否定しているわけではない。しかし、それに拘ってもいない。

有名な
New wine into new wineskins
(新しい酒は新しい酒袋に)
という言葉はここで語られている。

18から25までのエピソードも重要である。
イエスが初めて死者を甦らせたからだ。母親が娘が死んだ。あなたの手を置いて下されば、生き返るでしょう、と母親は言う。
イエスは言う。
Your faith has healed you.  (汝の信仰汝を癒せり)
人々は最初イエスを嘲笑う。
そんなことばできるものかと。ところがイエスが手を取ると少女は起き上がった。
そして、このうわさが地方全土に広まる。
26から31までのエピソード。
イエスは盲目の者を癒す。ここでイエスは尋ねる。
Do you believe that I am able to do this?
盲人は答える
Yes,Lord
イエスは言う
According to your faith will it be done to you. (汝の信ずるごとく、汝にまでなれ)
すると、彼らの目は見えるようになった。
イエスは注意する。
See that no one knows about this
誰にも知られないように注意しなさい。
しかし、彼らはその地方全体にイエスのことを言い広めてしまったのだ。

次には悪霊に憑かれて口が利けない人が連れてこられる。
これも物が言えるようになる。

パリサイ人は悪霊の親玉が悪霊を追い出してるだけさ、と嫉視して言う。なぜなら、彼らには人々を癒すということが出来ないからである。

こうして全ての町や村を巡り、公会堂で説教をし、神の国の福音を説き、障りのあるものや病んでいるものを癒し、弱り果てている人々を深く憐れんで歩いた。しかし、するべきことは多いが、働き手が少ない、と感じられ、更なる働き手として弟子たちを送り出すことをきめるのだ。

ここまでが9章の内容である。

いわば、キリスト教の伝道の原型である。やっていることは、イエスの時代から現代まで、殆ど変わらないのではなかろうか、と思われる。
ここから最初のイエスの弟子たちの伝道が始まるわけだが、第10章では、イエスがいわゆる12人の弟子たちに懇切丁寧な注意を行っている。
この12人の名前は、
ペテロ(シモン)とアンデレ(兄弟)
ヤコブとヨハネ(ゼベタイの子、兄弟)
ピリポとバルトロマイ
トマスとマタイ(収税人)
ヤコブ(アルパヨの子)とタダイ
熱心党のシモン(熱心党=Zealot)とイスカリオテのユダ
このように対になって記されている。
いわば、聖書の副主人公たちである。

この、いわばスーパバイザーとしてのイエスが、弟子たちに教えた伝道の心得は、いくつかの点で、現代でも行われているもののように思われる。
イエスは、弟子たちに、自分の分身としての教育を施しているのだ。「伝道者」の原点がここにある。

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