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2005年3月 5日 (土)

「新約聖書」を読み始めて

何で、聖書など、読み始めたのだろう、と自問する。
別にクリスチャンでもなし、どちらかといえばキリスト教には反感を持っている方だ。
その狭隘さ、その独善、その傲慢さ、その偽善に対して。

しかし、いま、世界を風靡する現代文明の源に、キリスト教があるのであれば、これを知らずして、現代世界で起こっていることの理解が、不十分になることは、容易に予測できよう。

そして、幸か不幸か、彼らの宗教は、典拠がある。神との契約が、彼らの宗教なのだから。

イエス・キリストという人物の実在性はさておき、その影響が現代に及んでいることは誰も否定できないだろう。その影響力が、彼の実在性を保障しているとも言えるかも知れない。

大体、2千年前の、当時の文明の中心であるローマ世界から見ても、更に遡ってメソポタミヤ文明またエジプト文明から見ても明らかに辺境であるユダヤの地において起こった小さな宗教的事件であり、詳細な記録など、残りようもないものである。

ところが、残った。彼の行った数々の奇跡の記憶と、彼が約束した、人類の救いという信仰と共に。

丁度、今日、マタイによる福音書を読み終えた。28章からなるこの第一の福音書の読後感だが、非常に理知的な感じを受ける。勿論、水の上を歩いたとか、5つのパンを5千人に分け与えたとかいう奇跡そのもののことを言うのではない。語り口は極めて冷静に、事実を追っていくというスタイルを取っている。だから余計に、不思議に思うのだ。

細かいことはまた別に記したいと思うが、イエスという人物が人々の前に現れて、そして十字架に架けられ、復活する、というところまで、一気に連れてこられたという感じがするのだ。

多くの断片的に知っていた数々のキリストのエピソードは、なるほどここに書かれていたのか、と頷けた。

色々なことを思わせられるものだ。

新約聖書のテキストは、本来ギリシャ語だという。また長い間ラテン語で読まれてきたものであり、英語の聖書は翻訳の翻訳の翻訳というものでしか有り得ないことは致し方ない。しかし、多くの英語圏の人々が聖書をどのように受け取っているかということは、むしろこの方が分かるというものだ。英語そのものの特徴かもしれないが、極めて平易な言葉でつづられている。日本語の約は何箇所か飛ばされていたりするのだ。

また、旧約聖書のことが分かれば、きっともっと面白く読めるのだろうと思われる。

でてくる預言者 prophet たちの言葉の引用と、その預言の成就として、様々な事件が語られていくからだ。

次は、マルコによる福音書に進む。この際、黙示録まで全部英語で通読してみようと思う。

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