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2005年3月19日 (土)

子規 その3   志の在処

「歌詠みに与ふる書」が見つからないので、その本文に立ち入って述べることが出来ない。また見つかったらそれをしようと思う。うろ覚に基いて、メモしておきたいと思う。

この、「歌詠みに与ふる書」は、伝統歌壇に対する爆弾宣言であった。それは、古今和歌集とその選者である紀貫之への徹底した批判であった。古今集を「下らぬ集」とこき下ろしたことへの反発は大きな論戦に展開していく。

子規は、万葉集を拠り所として古今集を批判するというスタイルを取っているが、万葉の昔に返れという呼びかけ方が、明治維新のスローガンである「神武創業の古に帰る」という言葉に対応するようでもある。

子規の、戦闘者としての面目は、俳諧の革新の際、神的権威を持っていた芭蕉の句の批判をするという、その世界の中枢の価値(セントラル・ドグマ)を衝くという闘い方に現れているように思われる。その闘い方が、和歌革新という大事業に取り掛かろうとした際、正に批判など思いもよらぬ権威として確立していた「古今集」を槍玉にあげるという方向に向いたのだ。果たして大変な反論が展開されるが、それに対して全く怯まず反論駁論を展開していった。

古今和歌集は、和歌の世界に留まらず、近代以前の花鳥風月的な、日本人の美意識の枠組みを規定していたといってよい。「古今伝授」という秘儀は、一種の精神論であったかもしれないが、大きな権威を持っていた。戦国末期に、後水尾天皇が、古今伝授の絶えるのを憂いて、一つの戦を止めたことが時代の転換と、古今伝授への注目をもたらした。文の武への優越を示した戦国の終息を示す象徴的なエピソードとして知られる。古今集の持つ精神的な権威は、皇室の尊厳とも結びついて極めて高いものがあったのである。

その伝統に対する批判は、ほとんど誰も思いつきもしなかった。

子規はそこに真正面から切り込んだのだ。

万葉集の価値というだけならば、その実、古今和歌集自体がその風を追うという立場に立っており、万葉集を読み解くこと自体が平安以来一つの大きな学問的課題でもあったわけであり、歴史を貫くコンセンサスがあると言ってもよい。

万葉仮名を読み解く作業は江戸時代に飛躍的に発展したが、これは江戸時代の学問の発展の歴史の中で、一つの地位を占めるものであり、国学の発展はこのことと切り離して考えることは出来ない。下河辺流留、契沖の「万葉代匠記」を経て、鹿持雅澄の「万葉古義」にてほぼ完成の域に入る。その間、賀茂真淵、田安宗武など万葉を称揚した国学者は多い。

しかし、子規が提唱した「万葉」は、「ますらをぶり」という賀茂真淵の漠然たるくくりをはるかに超えるものであったといえよう。

それは、子規が直面した時代にかかわりがある。

明治時代が、大変な政治的革命であることは、誰しも論を待たない。ところが、明治という時代の特質は、単なる政権交代ではなく、国民生活の隅々まで、ある意味精神生活の内奥にまでインパクトを与えた、総合的な変革期だったことに思い至らねばならない。

これまでの、伝統的な文化の枠組みでは捉えることの出来ない西欧文明の圧倒的な新知識が導入され、それを使いこなしていかなければならない。この時期、政治や実業の分野に最優秀な人材が投入されていったのは、この時代的要請であったと言わねばならない。

多くの新語が作られていったが、この明治期の文化創造の営みが日本人の内面に如何なる変容を要求したのかは、もっと考えられなければならないと思う。

夏目漱石は「自由と独立と己に満ちた時代」と明治を表現した。一方において、乃木大将に明治の精神の典型を見ることは最もふさわしいことでもあった。

勿論こうしたことの重要性は充分考えるのだが、子規が生きた時代は、正に明治が創出されていく過程そのものにあるのだ。慶応3年から明治35年という、明治が創造され成長発展していく過程の中にあるのだ。

人々の価値観が、政治的な目的に矮小化されることは、例えそれが必要な諸要素であったとしても、精神的な空白をもたらさずにはおかなかったのではなかろうか。

西欧のキリスト教に匹敵するほどのドグマティックな宗教を、日本はその歴史上に持つことはなかった。

そうした宗教的な側面だけでなく、文化の最も基本的な要素である言葉の問題があった。

西欧文明を受容し伝達するのに最も適している言語が、西欧諸国の言語であることは論を待たない。実際に、大学では英語などでの講義が行われることなどは普通のこととしてあった。

もし、この傾向を徹底していくならば、政治制度についても西欧の輸入なのだから、政治の論議は西欧の言葉をもってしなければならなくなるだろう。ところが、西欧の政治制度は「議会」を持ち、いわゆる公議公論を元としなければならないことになっている。

その理念が全て西欧のものであれば、政治論議は西欧の言葉でしなければならない。しかし、それでは公議公論となすには余りにも不都合であることは論じるまでもなく明らかなことだ。

西欧文明の技術の導入は、言語の面からしなければならない。

あるいは、公的な言葉は西欧の言葉を導入するしかない。こうした極論が真面目に検討されたことは、森有礼の英語国語化論などの証拠が挙げられる。必ずしも売国の暴論とは言い切れない。

奔流のように入ってくる西欧の情報を処理するために如何に国語を武装するか、これは、恐らく時代の重大な課題であったに違いない。

現代国語の成立はもっと跡付けられるべきであろうし、まだまだその混乱は収まっていないのではないかと思える節もある。

子規は、国語が自己変革しなかったならば、早晩西欧の言葉に圧伏しれてしまうことを恐れた。国語にはそれ自体の価値があり、そこに内在した諸々の価値観が、無価値になったというのではない。しかし、西欧の言葉に対して、それらを生のまま消化せずに受け入れるならば、いわばカタカナ語ばかりで本来の言葉を知らなければ全く解らないというおかしな事態が起こってくるだろう。

西欧の諸価値概念を、国語に移植する。この使命感は、西周や福沢諭吉らにも当然あり、多くの人々が尽力していくのだ。

それを、文学の世界でやる必要がある、というのが子規の問題意識であったろう。

伝統詩歌に対する罵詈雑言は、戦後激しく「奴隷の韻律」などといわれたこともあるが、いわばこうした内攻する精神の病を鋭く見越していたといわねばならないだろう。

言葉が心を規定する。心は言葉によって表れる。この相互作用は恐らく人間が人間である限り、決してなくなることのない営為であろうと思うけれど、言葉ほど不自由なものもない。言葉の目方を感じることなくして、その不自由さを痛感することなくして、言葉と付き合うことは出来ない。精神は言葉に規定される。その規定を脱しようとして言葉を破壊すれば、それは精神自体の破壊に繋がる。こうした宿命的なしがらみを覚悟して向き合い、手ごたえを感じつつ、それを改良し、使いこなそうとしていく存在、それが言葉のプロとしての文学者の使命なのだろう。

国語の世界から言えば、無から有を生み出そうという苦しみだったろう。西欧語で刻まれた概念を移植するということ、それは壮大な試みだったといえよう。

こうした言葉の上での冒険を、日本の言葉は過去にも経験していた。それが万葉の体験であったと言ってよいかもしれない。

専門歌人ではなく、実際に、日本語という言葉の海の中に生きる人々が、呼吸するように使われ、歌われてきた声、その切実な生活実感に基いた言葉を、本当の意味で言葉の生まれる場所から発生する歌を、収録しようとしたのが、古事記・万葉という事件だったのだ。

中国から移入した儒学や仏教という異質の文明体験、また漢字という中華世界の記号を持って概念操作をするという知的作業の伝統なくして、この西欧のインパクトは乗り切れなかったろうと思われる。

子規が試みたのは、国語という国民の精神の原点を、如何に世界に雄飛する国民のものとするか、の一点にかかっていたのだろう。

余談だが、林房雄氏が、明日香を「近代」と言ったことがある。確かに明治という近代と共通する時代を揚げれば明日香ということになるかもしれない。今、喫緊の課題に対して鑑とすべき原点は、明日香から生まれた万葉である、この認識は、極めて健全な自国の伝統への信頼であろうと思う。

そこに立脚して、子規は、近代人の精神の拠り所足りうる近代短歌の可能性を探るのだ。

子規歌集は、そのための試行錯誤の軌跡ではないかと思われる。

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