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2005年3月18日 (金)

竹山道雄氏の著作について

竹山道雄批判の本が出ていました。

丁度、「白磁の杯」を読んで、余りにリアルな描写に思わず身の毛がよだつような感じを受けたばかりでしたので、竹山道雄批判本が、今になって新しく出るほど、死してなお、その影響を無視できないのか、と思いました。

竹山道雄氏の著作で、未だにその意義を失わないものとして、勿論、他のものもそうですが、特に時代への批判としての効力を失わないものとしては、次のものをあげることができます。

その1、「昭和の精神史」
その2、「主役としての近代」
その3、「歴史的意識について」

いずれも講談社学術文庫に収録されています。

このほかに、手に入りにくくなっていますが、「ヨーロッパの旅」は、東欧、ソ連圏への紀行文ですが、共産主義国家の本質を、するどく見抜いている点で類書は少ないかも知れません。「続ヨーロッパの旅」「まぼろしと現実」などと一緒に読み直されるべきものだと思われます。

というのも、冷戦終結後、日本は方向を見失って、混迷を深めているように思えるからです。そして、それは、いわゆる「後期全体主義」的な空気が色濃くなりつつあり、暗雲のように日本全体に垂れ込めつつあるかに見えるからです。冷戦終結は、物理的な軍拡競争にソ連の経済が追いつかずに破綻した、というのが事実の一端であり、思想としての冷戦、あるいは共産主義、あるいは全体主義は、決して死滅したのではなくて、形を変えて蔓延しているように思えるからです。

「自由の悲劇」(西尾幹二)を読んだとき、その恐るべき全体主義の実態と後遺症を見せ付けられましたが、あのような人間性に対する極度の不信、軽蔑に対して、如何に個人が脆弱であるか、ということを思わざるを得ません。

これは、竹山道雄氏が繰り返し指摘した「大審問官」の謎にも繋がるでしょう。

「時流に反して」に収録されている「焼跡の大審問官」は今でも圧巻の迫力があります。

人間性というものが変わらない限り繰り返し現れる原像なのかも知れません。

「戦争責任」という観念によって全てが縛られていますが、不思議と、「共産主義の戦争責任」ということが真面目に議論されたことはないようです。
「戦争と共産主義」という本を読めば、これこそが先ずは論じられなければならない主要テーマであるはずにも関わらずです。

このことは、何度でも強調する必要があるでしょう。今、もっとも論じられなければならず、もっとも論じられていないのは、「共産主義の戦争責任」についてであるということを。

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