« 「常識」という言葉 | トップページ | 竹島の日制定にちなんで »

2005年3月17日 (木)

「常識について」

自分で発する言葉に囚われる、というのは誰にも共通する通弊なのだろうか?

「常識について」を紹介する、と言ってから、「小林秀雄全集」をひっくり返して見て、全然見つからない。「常識」という短文があったが、求めているものではない。おかしいなあ、と思ってもう一度見てみる。やっと見つかった。「第9巻 私の人生観」の最後に収録されていた。

改めてざっと目を通してみる。改めて、小林秀雄氏の炯眼に感服する。「常識」について、果たしてここまで思い巡らせることが出来るか、といえば、とても出来ないと思うしかない。

かいつまんで話すことが出来るとは思はないが、断片だけでもノートすることとしよう。

「常識といふ言葉は、日常、ずゐ分でたらめに使はれてゐる。」

これは、まあ、その通りのことでしょう。

「常識といふ言葉は、もともと日本語ではないのです。英語のコンモン・センスといふ言葉を訳したものだ。訳したと言つても、訳者は、これに当てはまる適当な日本語がないと考へたから、常識といふ新語を発明したといふ次第であつた。」

ここから、トマス・ペインがアメリカ革命の指導書として書いた「コンモン・センス」という著書に向かい、更に、フランス語のボン・サンスの訳語である「良識・善識」という言葉を熟さない言葉として紹介して、「常識」という言葉の原点に向かう。

「私のお話の眼目は、さういふ常識と呼ばれてゐる、私達の持つて生れた精神の或る能力の不思議な働きにある。」

そういう次第で、デカルトという人物に行き当たるというのだ。

「彼に言はせれば、常識といふ精神の働き、「自然に備わつた智慧」で、誰でも充分だと思ひ、どんな欲張りも不足を言はないのが普通なのである。デカルトは、常識を持つてゐる事は、心が健康状態にあるのと同じ事と考へてゐた。そして、健康な者には、健康について考へない、といふやつかいな事情に、はつきり気付いてゐた。」

という。

「彼が、誰でも持ちながら、誰も反省しようとはしないこの精神の能力を徹底的に反省し、これまで、哲学者達が、見向きもしなかつた常識といふ言葉を、哲学の中心部へ導入し、為に、在来の学問の道が根底から揺ぎ、新しい方向に向つたといふ事は、確かな事と思へる。」

デカルトを、近代の学問の確立者だということは、広く定着していると思われるが、デカルトが確立したという「方法」について、改めて反省する必要があるのかもしれない。学問と常識という問題は、デカルトが直面したよりも尚一層露骨な形で眼前に展開しているように思われるからだ。

「常識とは何かと問ふ事は、彼には、常識をどういふ風に働かすのが正しく又有効であるかと問ふ事であつた。ただ、それだけであつたといふ事、これは余程大事な事であつた。デカルトは、先づ、常識といふ人間だけに属する基本的な精神の能力をいつたん信じた以上、私達に与へられる諸事実に対して、この能力を、生活の為にどう働かせるのが正しいかだけがただ一つの重要な問題である、とはつきり考へた。」

「常識」の存在を疑って、デカルトの方法は無かった、ということなのだ。「常識」は、ある、ものであり、つくりだすものではない。常識を定義して、それを古臭いものとし、新しい常識をつくりだす、というような常識という言葉の扱いは、常識について、全く反省していない無分別なものの言葉だと、言えそうである。思い上がり、ということも出来るだろう。

デカルトの辿った道筋について、じっくり書かれているところを飛ばして、次の言葉に飛びたい。

「常識といふ言葉は、どうやら定義を拒絶してゐるやうだ。」

なるほど、と頷かざるを得ない。

「一方、学問といふものは、言葉の定義を重んじなければ、発達の見込みのたたぬものです。」

これも正にその通りとしかいいようがないことでしょう。だから、

「今日の学問の発達は、言葉の定義の驚くほどの分化、細分化をもたらしたから、常識が、曖昧な、通俗な智慧と見くびられるのも、止むを得ない勢ひでせう。」

ということになる。しかし、である。

「だが、ここで考えへて戴きたいのは、常識を、正確を欠く、主観的な智慧とか程度の低い一般的な智慧とか考へるのは、常識を或る認識のカテゴリイとして、外から規定しようとする事だ。漠然とだが定義を下さうとかかる事です。」

常識に照らせば、という言葉で、学者、というか知識のある人を説得することは難しい。大体、鼻先でせせら笑われるのが関の山だ。しかし、知識或る人は、その時、常識というものに対して、基本的な間違いをしている、ということなのだろう。

「私が、常識といふ言葉は、定義を拒絶してゐるやうだと言つたのは、この働きには、どうしても内から自得しなければ、解らぬものがある、それが言ひたかつたからなのです。」

内から自得する、ということが、現代人にはどうも難しいような気がしますが、であればこそ、常識という精神の働きは、回復されなければならないように思われる。

「厳正な定義を目指して、いよいよ専門化し、複雑化して、互いの協力も大変困難になつてゐる今日の学問を、定義し難い柔軟な生活の智慧が、もし見張つてゐなければ、どうなるでせう。実際、見張つてゐるのです。」

原子爆弾を生み出した科学の力というものは、人間の生存に大変な脅威をもたらした、そんなことを考えて見れば、常識という精神の働きの衰弱というものの持つ恐るべき結果について意識できるのではないかと思われてくる。

「常識は、その本来の力を、決して大声は揚げないが、絶えず働かせてゐるのだ。生活の智慧が、空想を好まず、真偽の判断を、事実に基いて行ふといふ点では、学問上の智慧と同じものだが、常に行動の要求にも応じてゐるから、刻々変わる現実の条件に従ひ、遅疑を許さぬ、確実な判断を、絶えず更新してゐなければならない。実生活は、私達に、さういふ言はば行動するやうに考へ、考へるやうに行動する智慧を要求して止まない。」

なるほど、そういうものだなあ、ということを思う。誰でも、どんな人でも、真面目に生きようとしている人は、常識を働かせていると考えて先ず間違いなさそうだ。

「学問上の知識に、この生活のうちに訓練されてゐる智慧に直接に働きかけ、これを指導するやうな力があるとは、先づ考へられない事だが、逆に、学問上の発見や発明には、この智慧の力が働かねばならぬ事は、充分に考へられる事だと思はれます。」

含蓄のある言葉だ。後、小林秀雄氏は、「常識」という言葉を作る以前に使われていた言葉として「中庸」という言葉を見出している。孔子に始まるこの言葉の含蓄も、また興味は尽きません。

|

« 「常識」という言葉 | トップページ | 竹島の日制定にちなんで »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「常識について」:

« 「常識」という言葉 | トップページ | 竹島の日制定にちなんで »