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2005年3月12日 (土)

「白磁の杯」

「白磁の杯」という小説をご存知だろうか。
「ビルマの竪琴」で知られる竹山道雄氏が書いた小品で、「新女苑」に連載されたお嬢様向けの恋愛小説なのだが、とてもそんな範疇で収まるようなものでない。

逆に言うと、昭和三十年頃のお嬢様は、このような極めて高度な思想営為を、楽しみながら学ぶことが出来たのだと思うと、隔世の感がする。今の世には「お嬢様」自体が死滅していると思われるのだが・・・。

さて、憎まれ口はさておき、この小説は、中国の北宋の時代、鉅鹿(きょろく)という都市を舞台にした話です。

道教の道士が町にあらわれ、様々な魔術を行い、町の人々はみなそのとりこになります。そして、近くを流れる大河が増水して町が危うくなるのに、気付きながらも、道士さまが解決してくださると思って何の対策も打ちません。

それを憂えた下級官吏の士賢は、対策を練り、上役にも掛け合いうが、上役は、町の人々の反発を恐れて何もしようとしません。ある日、町の人々に直接訴え、道士を言い負かしに行きます。しかし、道士を取り巻く狂信的な人々と追随する多くの人々の狂乱を目の当たりにしてそれを諦め、都に登って中央政府から直接命令してもらうように、非常手段に出ます。

首尾よく調査団の派遣が決まり、士賢は鉅鹿に戻ります。しかし、そのとき鉅鹿は蜃気楼によって大河の水は澄み、町の人々は道士を讃えて躍り狂っていました。

士賢も自分の努力は空しかったのかと思い、その人々の様を見ます。都から調査団の官吏が到着して、危険な状態を見て対策を立てます。町から逃げ出す者は厳罰に処すこと、総出で堤防の修復に当たることなど、士賢がかつて作っていた計画を元に命令が出されます。

しかし、道士を信じる町の人々は従おうとしません。士賢は、結局、洪水に飲まれても苦しまないためには、道士の力を借りるしかないと思います。

中央官吏らは袋叩きに逢い追い出され、町が眠りについた夜、洪水はひたひたと町を浸し、ついに町を覆いつくしてしまいました。

士賢とその婚約者である采采の恋物語でもあるのですが、采采は道士の教えに凝っています。その本の中に「人間は世界を幻のように見る」という一節があります。

この人間の認識能力の不思議さは、魔術などとうの昔に非合理なものとして退けられている現代において、まさに合理の名の下に、論理の名の下に、猛威を振るっているではないか、というのが、竹山道雄氏の訴えるところです。

氏のこの論議は実に重要なものであり「昭和の精神史」「主役としての近代」などの主要著書は日本の現代史を考えるに当たって是非とも一読しておかなければならない、哲学書であると思われます。

士賢が読んだ、道士の幻術の書をご紹介いたしましょう。

1、人間の心は宇宙の中でただ一つの特別なものであり、実在しないものを思いうかべることができるものである。その底にはつねに、自分にも気づかない欲求があってはけ口を求めている。この要求をみたしてやると約束せよ。人間がみずから気づかずに欲しているものに訴えたときにのみ、幻をひきだすことができる。「かくあってほしい」とねがっていることを「かくある」と思わせることができる。人間は自分の要求にしたがって世界を把握する。近くは要求によって左右される。

2、人間は眠っているときには、何も水何も触れていない。しかも夢の中では、自分は見て触れていると信じている。対象がないのに、あたかもしれがあるかのような感触をもっている。これが大切な点である。すなわち幻術とは、人間のもっているこの夢みるはたらきを生かすことである。実物がなくして、しかも実物に接したときに受けるのと同じ内的感触を引き出すことである。

3、相手にする人間は、大勢であるほどよい。群集はもっとも作用されやすい。しかし、これはかならずしも、たくさんの人間が同じ場所に集まっていなくてはならないという意味ではない。意見交換さえ自由に行われれば、人間はちらばっていても群集と同じ性質のものとなりうる。こうなれば、人々は幻を語り合い、せりあう。いったんこのせりあいが始まれば、すでに魔法の影響の下に入った人々のあいだでは、熱はとめどもなく高まる。かくて、映像は個々の人間からはなれて独立して生きたものとなり、これが世の中を支配するようになる。「みながそういうのだから」とて否定できないものとなる。この集合的心理は、個人的な心情から推してはとうてい考えられないものである。集団に対して個人倫理をあてはめて判断することはできない。

4、いったんそうだと思いこませてしまえば、後は楽である。ある見方がきまると、それから後はすべてをその目で見るようになる。要求選択して知覚を組みたてる。人ははじめのうちは、自分はそれを信じていると信じたがっているのだが、やがて自分はそれを信じていると信じるようになる。この「事実についての見方」をあたえることが、幻術の要訣である。もともと人間は事実そのものの中に生きているのではなく、事実について彼がいだいている表象の中に生きている。事実を直視する人間はほとんどいない。人間は事実から出発しないで、表象から出発する。人間に、世界についてのある特定の表象の仕方をあたえよ。人間は世界を幻のように見る。

5、人間のもっている絶対的なものへの要求―生と死とか、霊魂の不安とか、あらゆる不満の救済とか、永遠の理想境とか―への暗示。儒教はおろかにもこういう問題を回避しているから、人間をふるいたたせるあたらしい力となることができない。人間はただ現実の中にのみ生きているには堪えないものである。よろしく、このような解くべからざる超感覚的な問題をある形で解決してやると唱えることによって、そこに熱狂への道をひらくべきである。

6、人間は命令されたがり、支配されたがっている。その人のいうことをきけば一切が解決して、この漠として謎のような宇宙の中で自分が安定した地位を占めることができるような人の出現を、渇望している。ことに、知ることができない未来への関心は、人間の根本的な切願である。教組の預言は、世に絶えることがない。

7、空想力という大きな機能を顧みないことは、人間の本性についてのはなはだしい洞察の欠如である。最大の恐怖を生むものは空想であるが、最大の確信を生むのも空想である。じつに空想はついに事実まで生む。(たとえば子供をほしがっている女は、想像妊娠をして腹が大きくなる。男もしばしば想像妊娠をして彼の頭をふくらます)。もともと人間は空想力によって他者と一体になっていた。子供や原始人は自他の区別をしらない。やがて知力がすすんで、反省をするようになって、はじめて空想の世界と醒めた現実とを分離することがはじまった。空想世界は、後から夢想によってえがきだされるばかりではなく、むしろ人間はこれから出発したのである。だから、人間の精神にとっては、現実と非現実の未分離が根づよいものである。人間は世界事象を神話として把握し、これによってはじめてさかんな行動力をもつことができる。

8、幻術の作用は、この両者を分離するものを除いてやることである。これさえしてやれば、人間は現実に対しては不満をもっているのだから、いまとはちがう非現実の状態へと奔るようになる。そして、現実を超えた自他の別のない集団の中にとけこむことができて、その法悦に酔って、救われる。自分ひとりで立っているということは、人間にとってのくるしい負荷であり桎梏である。

9、言葉こそは最大の武器である。多くの人々にとって、言葉はすなわち実在世界である。

この、道士の言葉を士賢は「悪魔的な言葉だ」と言います。しかし、これが「人間の知覚」の真実でもあることを、竹山氏は知っています。

現代の幻術士は、もっと大掛かりなことをしています。竹山氏は第二次世界大戦のことを念頭においています。しかし、この指摘は、現在の日本において更に深刻なのではないかと思います。鉅鹿の町の住人のように、迫り来る危機に対して、漠然たる不安感を持っているが、決して自分から動き出そうとはせず、もっともらしいことを言うマスコミに振り回される。最後には、日本も、鉅鹿の町のように歴史の表面からうずもれてしまうのでしょうか?

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コメント

橘兄の仰ることは、現在の私が置かれている立場に強烈な啓示として聞こえます。

常識とはいったい何なのでしょうか?

超高度な理論的常識と戦う毎日の私ですが、その常識を覆す現実しか「自分」を証明する術はありません。

だからこそ、橘兄の戦いに負けぬくらい頑張ろうと思っています。^^

投稿: 山の不動 | 2005年3月12日 (土) 午後 10時28分

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