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2005年3月 3日 (木)

「新約聖書」を読む マタイによる福音書 第5章から7章の感想

イエスの教えは、単純なようで錯綜としている。矛盾があるようにも見える。しかし、これは、致し方の無い矛盾錯綜であるように思われる。いかなる狡猾なる者であっても、欺き得ないように語らねばならなかったからであろう。「あなたはこういったではないか、なぜ救われないのか」という抗議を予め封じているように思われる。だから錯綜するようにもみえ、前後矛盾するようにも見えるのだろう。

イエスの言葉で、すっと入って来る素直な部分と、極めて厳しく、錯綜としている部分とのコントラストがある。それが丁度内容のコントラストにもなっている。前者は素直なものへ、後者は狡猾なものへの言葉であったように思われる。実際に議論好きで通るユダヤ人に対して語る言葉は、論理的に万分の一の隙もあってはならなかったのであろう。それがイエスの言葉の錯綜とする所以であろう。それにしても、イエスの偽善者”hypocrites"に対する怒りの激しさを感じずにはいられない。直情径行な人だったのだろう、と思われる。

群集は、必ずしも、その語る内容自体に、驚いたのではない。その言葉が、「Authority」権威あるもののように語られたことによるのだ。そして、「not as their teachers of the
law.」「律法学者のように語られたのではなかったから、というのだ。この律法学者というのも曲者だが、恐らく、書いてある言葉を棒読みに、何の感動も無く押し付けるようなものの言い方でしか、語れなかったのだろう。イエスが、律法学者たちと違ったのは、ただ、「he taught as one who had
authority」であったからなのだ。

これは、同じ教えであっても、棒読みで語られるのか、その言葉を生きたものとして語るのかで、受け取る側の印象として、天と地の差が生まれるのであって、これは現代にもそのまま通じることだと思われる。

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