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2005年3月

2005年3月31日 (木)

子規  〜その7〜  「歌よみに与ふる書」にふれる(2)

「歌よみに与ふる書」などという、反故(ほご)をいまさら持ち出して何になるのか、この一文の表題を見て訝(いぶか)しがる人もおられるであろう。
その理由を、全て言い尽くしてくれているのが、(1)で紹介した夜久正雄氏の一文なのである。

「子規が月並、理屈を排撃して万葉復古を唱えたのは、王政復古、明治維新という政治的意志と平行する文学上の業績であったとみられる。」

「いわゆる徳川三百年の太平の夢が覚めて、いわば一切の価値が崩壊するかに見えた時、子規は、前提をゆるさない周到な検討によってただひとりその眼力をつちかっていった。そういう意味での徹底した客観的科学的精神は、やはり西洋文化との接触によって生まれたとみることができる。その意味でも、子規は明治の子として明治の課題に全身を傾けて答えようとしたと思う。」

子規が行った独創は、明治維新という独創の文学上の側面だということであり、先に維新の志士と子規を同等であると断じたが決して自分だけの独断ではない。

夜久正雄氏が子規の歌論を読む理由について2点挙げている。

「第一はもちろん子規の精神と思想とをその文章によって味わい、子規に具現された明治の創造的精神を「身読」しようとするためである。維新と復古、革新と伝統とがひとつのものになる所に明治の精神の偉大な特徴があるが、子規はそれを最もよくあらわしている。第2次世界大戦の敗戦後は、日本の国土の範囲が明治初年にかえったこと、われわれ日本人はすべて占領軍の支配下に入ったこと、それまでの制度や思想が崩壊したことなどから、国民の多くは絶望と緊張とのおりまざった気持ちで、明治初年、つまり明治維新の精神を回顧したのである。そこからもう一度やり直しだ、という意気で、日本の復興にとりかかったものであった。そうしてその復興は経済的な面ではほぼ達成された。しかし教育や文化の面では、そういう復興精神はいまだに表現されていない。そういう今日であればこそ、子規の文章を読むことの意義は大きい。国の独立と自由とを戦いとった明治の創造的精神を学びながら、現状の行きづまりを開拓しなければなるまい。」

この文章に言い尽くされているので何も付け加えることはないが、昭和の文人で子規に当たる人は、誰であろうか、という想像をめぐらして見てもよいかもしれない。思いつきだが、「三島由紀夫」という名前が浮かび上がってきた。

僕が思うに、「小林秀雄」「江藤淳」「林房雄」など、多くの偉大な巨峰が連なっているように思う。

それでも、一つの原点として、子規の再評価ないし再発見は重要な課題なのだと思われる。

もう一点については、また書く。

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DVDで見た「王妃マルゴ」の感想

 これは、以前書いた映画の感想です。何の参考書もなく書いていますので、歴史的に正確さを欠くかも知れませんが、一つの詩を書くつもりで書きました。映画を見た人でなくても、解ってもらえるかどうか、あるいは映画を見た人でも解らないかもしれませんが、映画を見た一種異様な感覚を祓う為に書いたというのが動機なので、許して頂くしかありません。
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フランス史上に刻まれた、聖バーソロミューの大虐殺
和解のために集まったプロテスタント6千人を一夜にして死体の山にした、カトリックを奉じるバロア王家の行った血塗られた歴史である。

王妃マルゴは、この演出のための政略結婚の道具であった。彼女は、母を殺され、自らを兄弟の慰み者とされ、一種の特異な精神異常であったといえるだろうが、しかし、信仰が行った狂気に比べれば、彼女の狂気こそが正気だったとも言えるのだろう。

初夜を、下町の行きずりの男に捧げ、そのためにその男を愛するという、羽目に陥る。しかし、それが彼女の純真の証なのかもしれぬ。

虐殺の余韻は覚めやらぬ。平和と安寧を旗印に、血塗られた暗殺を繰り返す母后カトリーヌ・ド・メディス。彼女も、その愛着の深きがゆえに、神の名を用いて罪を重ねる。

仏教で言えばカルマに陥ったものといえよう。敵を葬らんとして、最も愛するべき王に毒を盛ることになる。愛と信を求めた王は、敵にさえそれを求める。そして、最も愛すべき女さえも守り抜くことが出来ぬ。政略の愛憎の渦の中で、いくつもの命が青白い死体を残しては消えてゆく。

アンリが示したものは、義務か。それとも愛か。愛のない政略結婚。それは、プロテスタントとカトリックの和合のためという見せ掛けのために捧げられた茶番劇であった。しかし、それを茶番ではなく、悲劇たらしめたのは、アンリの高貴なる精神にあるといえよう。自分を愛することのない王妃マルゴ。自らの同志が、彼女との恋を結ぶことを、受け止めるしかない。彼はマルゴを愛しないわけではない。しかし、彼は忍ぶ。そして、彼女を同盟者として信頼の絆を結ぶのだ。愛とは別の。

虐殺の青い夜。そこに花咲いた婀娜なる恋が、最も純真なものであった。
首切られたかの男の死体に、王の防腐剤が使われる。美しさを保つために、マルゴの宝石が捧げられる。

彼女は生きる。生きて、アンリのもとへ行く。愛しているわけではない。しかし信頼できる同盟者なのだ。お互いがお互いの窮地を救う。只一度だけ、肉体的な結びつきを持ったのは、その徴なのか。二度とはなくとも、それが高貴なる契約の徴だったのか。

淫売と罵られ、自らもそのように振舞う、男なしでは夜も寝られぬからだと成り果ててしまった彼女の悲しい性。最も低俗なものと最も高貴なものが一つと連なって連環を閉じるのだ。

青白い死体が、満月の光に照らされる。生き返るのは常に死者だけの特権なのだ。生きているものの、何と影の薄いことか。

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2005年3月30日 (水)

新刊紹介 教育正常化への道

「サッチャー改革に学ぶ 教育正常化への道」(中西輝政監修・英国教育調査団編)という本が発刊され、最初のところだけ目を通しました。

はしがきで、衆議院議員の平沼赳夫氏は、

「この「日本国憲法の精神に則り」制定された教育基本法では、個人の尊厳というものが強調されていますが、その一方で、日本の歴史、伝統、文化、あるいは家族の結びつき、こういう大切なものがなおざりにされています。」と指摘します。

続けて、

「自国の歴史、伝統、文化に誇りが持てない教育は、国の存亡を危うくするばかりでなく、他の国の人々の誇りや尊厳に対して敬意を払う術を知らない、国際感覚の欠けた人間を作り出してしまうことにもなります。」

と述べています。全く同感で、端的に今の教育問題の状況が述べられているように思われます。

「イギリスの教育改革の紹介にとどまらず、教育基本法を改正した後、我が国の教育はどのようになっていくのかという未来像まで提示している」と、この本の特長を端的に述べられています。

次に、中川昭一経済産業大臣が、発刊によせて一文を書かれています。

「日本の未来を担う子供たちには、我々の先輩たちが郷土のため、国のため、世界の発展のため、いかに頑張ったのかをまず伝えるべきです。自国の歴史に誇りと愛情を抱くような教育を受けることなくして、どうして世界で堂々と活躍できる日本人が育つでしょうか。」

と指摘しています。そして、

「本書は、単なる教育改革論ではありません。教育改革を支える哲学の書として、ぜひとも多くの方々に読んでいただきたいと思います。」

としめくくられています。

教育の問題は、今、本当に、誰もが大きな関心を持っていますが、きわめて見えにくい、解りにくい世界でもあります。個別の体験は誰もが持っていますが、自分自身に何が施されたのかを客観的に分析し、再構成できるほどの余裕と力のある人は殆どいないでしょう。

教育に関する白い闇とでもいうべき状態がずっと続いているように思われます。

教育を受けない子供はいないにも関らず、最も誰にとっても密接に関っているものであるにも関らず、そしてそれが自分の、自分の子供の人格形成に大きな影響を与えていることが明らかであるにも関らず、その教育という巨大なシステムが、一体何であるのか、理解に苦しみます。

この本は、教育の全体像を明確にして、国家の教育政策とはいかにあるべきなのか、教育の責任は最終的に誰が取るのか、という極めてオーソドックスな問いを納得できる形で提示しているようです。

読み終わったら、また感想を書きます。

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子規  〜その6〜  対比

岩波文庫の「子規歌集」に2種類あることを、最初に記した。
戦後1959年(昭和34年)に出版されている。選者は土屋文明。
戦前昭和3年(1928年)に出版されたものは、編者が鼠骨になっている。

ちなみに、戦後の奥付は西暦のみ、戦前は元号のみの年号で記述されている。

この両者を見比べた時、やはり感ずるのは時代の違いである。

戦前版のものは、明治31年から始まっている。これは、明らかに子規が和歌というものに本気で取り組み始めた時期を意識していると思われる。

次に、歌の選択である。

戦後版には、明らかな戯れ歌も載せているが、戦前版には殆ど全くといって良いほど見られないこと。これは際立っている。

三つ目には、これは致し方ないことかも知れないが、子規への思いの強さの違いである。戦前版の鼠骨は、子規の明治33年の歌の中に「鼠骨入獄談」という8首連作がある。子規の親しい友人でもあり、歌の同志でもあった人だ。解説はたったの5行。「歌会の席上の悪戯気分や楽屋落気分から座興に作られたもの等を省き、大部分を抄出したものである。以て子規居士の和歌を伝ふるに充分だと思ふ。」と言い切っている。思いの深さが偲ばれるのである。

四つ目。戦前版には長歌も採られているが、戦後版には全くないこと。

五つ目。皇室に関する歌が、戦前版には掲載されているが、戦後版を見てみると首を傾げたくなるほど落ちていること。これなどは正に「時代の違い」といえようか。しかし、鼠骨の編集態度からすれば、子規の精神を伝える上では戦前版の方が真に近いといえるかと思う。

これらを対比して浮かび上がってくる子規像はかなり異なってくるように思われる。

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やっと・・・・

徹夜作業が今終わりました・・・!
今日は午後から会議です。その資料作りでしたが、いつもぎりぎりになってしまいます。

集中しないと出来ませんし、直前まで考えを煮詰めないと納得したものが出来ないということで、どうしても直前の一夜漬けになってしまうのです。

と、これは言い訳で、本当はもっと要領よくやらねばならないところなのでしょうね。

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2005年3月29日 (火)

こちらも宜しくお願いします。

「わが古典」などというブログを別立てでつくりました。
これは、純粋に日本の古典(のみに限りませんが)について考えていくところにしていきたいと思います。

最初に取上げるのは「残桜記」です。

これを「古典」というには少々問題があるかもしれませんが、自分にとっては貴重なものです。後南朝の歴史をまとめたものとしては、殆ど類書がありません。

あるていど、鎌倉幕府の滅亡から建武の中興、そして南北朝時代についての知識がないと良くわからないかも知れませんが、それについては追々書いていきたいと思います。

生の原文をいきなりぶつける形でアップしていきます。現代語訳は、あくまで私が辞書など全く使わずに行った意訳ですので、間違っているところも多いと思います。

こちらの部屋と別に致しましたが、そちらもたまには覗いてみてください。4月1日から始めて、毎週金曜日にアップしていく予定です。

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2005年3月27日 (日)

TOEICを受けました。

120分200問の英語の問題に向き合い続けるストレスに耐え切れないと思っていましたが、無事乗り切ることが出来ました。

私の目標は・・・。400点ライン(;;) まあ、情けないですが、こんなものです。一緒に受けたRin君は900点台が目標ですから天と地の差とはこのこと・・・!彼は昼食抜きで試験に臨みましたが、曖昧な問題は1~2問だったそうです。私は・・・、パニックにならなかったことだけが、自分をほめてあげたい^^; という程度でした。

帰りに、試験のAttentionを、遅い昼飯を喰いながら、ざっと長文読解して行きましたが、大意はつかめても詳しく見ていくとぼろが出まくりでした^^;

英語などにかまけているより、やることがあんだろ〜という声なき声が聞こえてきますが、まあ、何でこだわってるんだかわかりませんが、一つのコンプレックス克服でもあるのかな、と自己分析などしております。

それにしても、若い女性の多いこと多いこと、何のためにそんなに英語なんかやるの?と、自分を棚に上げて思ってしまいました。大脳生理学的に、語学的才能は女性の方が勝っている、というのをどこかで読んだ気がしますが、語学への関心度は間違いなく女性の方が上ですね。

それは、きっと何か日本とは別世界に憧れるという心理も働いているのかも知れません。大体、海外に出て、日本男児はモテませんが(幾多の例外をぜ〜んぶ無視しまして^^;)、日本女性はモテまくり、なのかも知れません。といっても、声をかければ付いていくような女性なら、どこでも男の餌食になるわけで、それがモテると勘違いしてはならない!ということを、負け犬の遠吠えとしてWarning(警告)しておきましょう!!

そうそう。TOEICテストの攻略本で、試験問題に線を引くとか色々書いていましたが、今回、それは全てご法度であることがわかりました。問題文に線を引くのも点を打つのもだめだそうです。ヒアリングは、純粋に聴いて、理解して、問題を見て、理解して、考えて、正解を見つけなければなりません。特に最後の20問は、長々と聴いた後、2〜3問を続けて答えるというもので、これは殆どお手上げ状態になりました(--;

大体、時計を持たなかったのが失敗でした。残り75分間で100問を解くわけですが、後半少し残してタイムアウトになってしまいました。それでも2時間たっぷり英語の世界にどっぷり付き合えたのは良かったです。

目標は、一年後、英字ニュースは目に映るほど心に当り、英語ニュースは聴くほどに解することを得るところまで行ければよし。必要な情報を自由に英語圏から入手することが出来るようになりたいと思っております。これがほぼ達成されたならば、次々と攻略したい、などと無謀な夢を膨らませております。

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「日本思想の源流―歴代天皇を中心に―」輪読ノート (1)

第八章 日本思想を西洋思想とくらべて

 一、「私」と「個人」と

 ○人の心の二つの傾向について

  (一)自分のことだけに執着・「我執」

  (二)自己以外の人に相対して、その相対する人が示す「まごころ」に感動し、その人の「心」のなかに、わが身もわが心も融け込ませてしまうような「没我の境」を生み出す
          ↓
     人間同士の努力によって初めて養われていくもの価値あるもの・美しいもの

    ※「私情」の中にはこの(二)の傾向をも含んでいた。
     「私」「自己」を考える前提に、自己以外の人の心の中に自己の心を投入させる美しい「私情」をごく常識的に、ごく自然に考えていた。

 ○明治以後に西洋から移入された「個人」という言葉

     ※「個人」=「私」「自己」ではない

    自己→相対する人→(没我の境)→感謝の心→大自然の恩恵への感謝→親に対する謝恩の心→天皇への感謝の心

   天皇の大御心…人間はお互いに信じ合いながらともどもに楽しく生きていこうではないかと呼びかけられる。

 ○日本人=現実ありのままを大切にした人々

  「私情」→時には、感謝する相手のために、自己の尊い生命を捧げても悔いない「没我の精神」として発露。=平時における「私事を擲って公の事に献身する「公のために自分が役立ったという喜び」

    =祖国の危急の時=「にっこりと国のために笑って死ぬことさえできる「殉国の精神」。
           
 ○人の心が向上するプロセス

  「我執」→「私情」→「没我の精神」→「公共心」→「殉国の精神」

※「我執」につきまとわれつつもこれを振り切り、遠ざける努力を続けるときに生まれるもの。
        
「人間の心はどんなに美しい心を発露させる場合でも、「我執」を遠ざける努力が、その都度その人の心の働きによってなされていて、それを遠ざけ得た時に、美しい「私情」があらわれ、「没我の精神」が生まれ、発しては万朶の桜となると評された大和魂の発露ともなっていったのである。」

「人の心なるものは、時に美しい発露を示しても、次の瞬間には、もとのもくあみのごとく醜い「我執」の禽にされてしまうもの」

   「心は常に揺れ動くもの」→「人間のありのままの姿」

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2005年3月25日 (金)

春の雪〜櫻

 今朝起きたら、雪が積もっておりました。

 遠くに車で出張する予定があったもので少しあせりましたが、幸いに「春の雪」で道路には殆ど影響はありませんでした。それでも、山の方は30センチ位積もったらしいです。

 100キロも離れた市へ行った帰り、今日は高速ではなく、下の道を通りました。陽がさんさんと照らす中、雪が舞っていました。不思議な光景でした。・・・

 「春の雪」は、三島由紀夫氏の最後の長編小説「豊饒の海」4部作の第1部の名前になっています。大正時代を舞台にしたもので、転生する主人公である松枝清顕を中心に展開する恋物語でもある。
 僕は、4部作の中でも一番好きで、王朝の雅というものをこのように描ける作家は、もう出ないだろうと思う。三島氏自身が、古典を体現した最後の世代だ、という意味のことを言っている。

 昭和62年の春、4月8日に東京を襲った大雪は見事だった。満開の桜の上に雪が降り積もった。あのような光景は中々お目にかかれないだろう。しかも、僕が目にしたのは、靖国神社の櫻だった。

 もうすぐ櫻の季節である。

 櫻の歌は、誰が詠んでもそれなりにさまになる。また傑作を詠むことは難しい。これはやはり伝統だろうと思う。櫻と日本人の付き合いは神代以来だから、これは本当に長い。万葉集には、梅を題材にした歌の方が多いとのこと。大陸伝来の芳しい香りを放つ梅花は、櫻よりも早く雪の中に咲く可憐さと共に、古代の人々を楽しませた。櫻は、より生活に密着していた。

 櫻吹雪というものを見たのは、大学に入学して上京した折だった。京王線の桜上水という駅の次の上北沢駅で下りて住宅街を一直線に伸びる道が桜並木になっていた。満開の桜が、音もなく絢爛に日の光を浴びて散っていく、道を見通すことも出来ないほどに。春の日の静寂の中を、見事に散っていく桜の姿が、僕の原風景となった。未だに、あの感動を超える桜を見ることはない。

 久方の光のどけき春の日にしづこころなく花の散るらむ

 古今集のこの歌が、この何とも形容のし難い僕のこのときの心持ちを、掬い取ってくれているように思われる。

 学生時代の友人で、京都出身の男がいた。彼は、古今集は京都の自然を極めて適確に捉えているように思う。京都では古今集が実感を込めて読むことが出来る、という意味のことを言っていた。

 子規は、四国の人だった。聖徳太子が御幸されたという道後温泉は未だに健在である。子規はその血からして、万葉に近かったのかもしれない。また、余談ではあるが、南北朝時代、最後まで南朝に忠節を尽くした越智氏は、この近在の出である。

 櫻の季節が近づくたびに、不思議な心持になる。そぞろに落ち着かなくなり、まだ冷たい風を浴びながら、ふらふらと散歩などしたくなる。何ということのない花であるのに、なぜこのようなことになるのだろうか。

 木花咲久夜姫命は、櫻の精である。天孫ニニギの命がこの姫と結婚した。

 山の神の娘である櫻の精が、皇室を通じて日本の国の遠い遠い記憶として伝えられてきているのである。日本が櫻の国だというその源は遥かに深く、日本人の心の中に根ざしている心情そのものなのかも知れない。櫻の精は日本人の心の中に、確かに棲んでいる。

 もうすぐ櫻が咲き始める。やがて物憂い春がやってくる。

 風さゆる み冬は過ぎて まちにまちし 八重桜咲く 春となりけり
 国の春と 今こそはなれ 霜こほる 冬にたへこし 民のちからに

 昭和二十八年四月二十八日、独立回復の日、「平和条約発効の日を迎へて」と題されて詠まれた、昭和天皇の御製である。

 文法として「こそ〜なれ」=強調、ということだけ知っていれば、小学生でもよく意味を取ることが出来るだろう。「まちにまちし」「国の春と」の一字字余りは、溢れて止まぬ喜びのご表現だと思う。

 国の春という国の独立を言祝ぐお言葉、民のちからにという国民への全幅の信頼をお寄せになったお言葉、戦後の独立回復の原点は、正にこの二首の御歌に余すところなく表現されている、と思われる。このことを、しみじみと味わうことが出来る、その心の姿勢が、日本人が今忘れている心なのではなかろうか。

 同期の桜を歌う会、という戦友会の催しがある。

「貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く 咲いた花なら散るのは覚悟 見事散りましょ国のため」 

 有名なこの歌は、現代の「読み人知らず」の歌である。民族の伝統というのは、このように湧き出るのかも知れない。
 心に櫻を持った民族、日本民族をこのように表現することも出来よう。

 櫻を心に持った民族だからこそ、世界の中でその独自の姿を発揮することも出来るのだろう。

 水上勉氏の「櫻守」にあったが、櫻は戦後、痛め続けられている。櫻が病むとき、日本人の心も病むのかもしれない。
 それでも、人々は、櫻の下に集まって、酒を飲むのである。

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「日本思想の源流〜歴代天皇御製を中心に〜」を読む

 この本は、「日本思想」について深く考えるために最適のテキストである。

 著者、小田村寅二郎先生は、吉田松陰の血筋を引いている方であり、戦前、学生時代から一貫して、日本思想の在り方について思索し、現代日本の思想状況に対して警鐘を鳴らし続けて来られた方と、私は認識している。

 その先生の遺著の中でも、日本思想について明快に論旨をまとめておられるのがこの「日本思想の源流」であり、この著書を通じて、日本人としての基本的なものを考える姿勢について考えて行きたい。

 2年前、この本を輪読して勉強する機会があった。そのときに作成した輪読のためのノートが、自分が担当した部分についてまとめてある。それを発表しつつ、更に他の部分についても、ノートをまとめて行きたいと思う。

 3月28日から始めて、週に一回月曜日の朝8時にアップするようにしたい。

 書籍の紹介でもあるが、この本は、今、古本屋でも中々見つからなくなっている。復刊の為には少しでも多くの方にこの本の価値を知って頂く他はない。この拙い自分のノートを敢えて作成して発表するのも、そのささやかな一助になればとのことである。

尚、順番は、第8章から始めて、第1章に戻ります。

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2005年3月21日 (月)

子規  その5   「歌よみに与ふる書」にふれる(1)

 やっと見つかりました。やっぱり一番下に隠れていました。

 私の持っている「歌よみに与ふる書」は国民文化研究会で発刊したもので、当時、大学生に読ませるテキストとして入手し難かったことから、作成したものと、あとがきにあった。岩波文庫にも入っていて、今、検索してみたら入手できる。(歌詠みに〜、としていたのは間違いでした。謹んで訂正いたします)

 それ以上に、今は便利な時代で、青空文庫で入れていました。底本は岩波文庫とのこと。

歌よみに与ふる書


 それにしても、この当時(昭和30年代)は、明治三十一年から数えてまだ六十年余りしか経っていなかった。それでも「子規は忘却の彼方に追いやられてしまったらしい」と解説者の夜久博士は嘆息している。

 文章は候文であり、戦後の教育だけしか受けていないものにはちょっと取っ付き難い感じはある。しかし、子規の文章は本来ちっとも難しいものではない。

 夜久博士の解説はそれだけでも独立した価値があるので少し引用しておく。
「たとえ岩波文庫の「歌よみに与ふる書」が出ているとしても、大学生にそれを読む力がなくなっているので、これでは本も売れるわけはない。では、といって、まさかこれを現代語訳して読ませるわけにもゆくまい。それでは子規の語調が消えてしまうからである。語調が消えるというのは、筆者の情意がなくなってしまうということである。この情意をともなわない灰色の理屈、実行意志のない観念、―つまりイデオロギーを排したのが子規の歌論だ。その歌論から情意を抜きにするわけにはゆくまい。子規のものは、どうしても原文のまま読むよりほかに方法はない。」
 これに続けて、先に引いた言葉が続くわけである。

続きはまた。

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2005年3月20日 (日)

子規 その4  明治三十一年の短歌 (1)

 歌集を見て直ぐ気付くのは、明治31年から作歌数が一気に増えることである。また、その後、万葉振りの歌作者として子規が紹介した源実朝の「金塊和歌集」を歌った次の歌が現れる。

   金塊和歌集を読む
試みに君の御歌を吟ずれば堪へずや鬼の泣く聲聞ゆ

 古今集序に「鬼神をも泣かしめ」とあるのを踏まえているのかも知れないけれども、それほどの切々と心に響く歌の数々だというのだ。実際に、声に出して朗々と読んだのだろう。

 短歌は、俳句よりも遥かに長い歴史と伝統を持っている。和歌という言葉を広く用いれば、短歌も俳句も入ってしまうかもしれない。そこで、子規の行った仕事については、伝統的な和歌と区別して、短歌革新、という言い方が用いられることになる。

   病中
我に神の歌をよめとぞのたまひし病ひに死なじ歌に死ぬとも

 これは正に内面から催してくる衝動が如何に強いものであるかを現した歌のようにおもわれる。また、病気なんかで死んでたまるか、という子規の叫びが聞こえてきそうだ。正に、歌に命をかける、そう覚悟していったのだ。
 そう思うと、この歌の直ぐ後に、

   日本の国を
千はやぶる神の御代より日の御子のいやつぎつぎにしろしめす国
たひらかに緑しきたる海の上に櫻花咲く八つの島山

という歌が続くのは、歌に命をかける志が、歴史と伝統の国、美しい自然の国日本を守る、というそのことに向かっていることをうかがわせるに足るであろう。

子規に、このような幕末維新の志士の継承者の面影を見ることは決して飛躍ではないと思う。

子規の爽やかさは、しかし、すぐ続けて、次の歌を掲げているところにあるようにも思われる。

   ベースボールの歌
久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも
今やかの三つのベースに人満ちてそぞろに胸のうちさわぐかな

まだ「野球」という言葉が生まれていなかったことが思われるが、満塁の興奮を実に素直に表現していて、共感を呼ぶ。アメリカ人のアメを天に見立てて久方のという枕詞を使っているところなどは、茶目っ気さえ感じる。子規は、どこでベースボールを見たのだろう。この頃既に「草野球」のように空き地で行う人がいたのだろうか。誰がプレイしていたのだろうか。野外に出かけて試合に見入る子規は、まだこの頃は歩けたのだろうか。自分でもプレイしたのだろうか。どうも、歩けたとは思えない。「足なへにして」という言葉が直ぐ後の歌に出てくるのだから。

歩けなくなる、ということが健常人にはちょっと想像出来ない。
精神が如何に自由でも、自分では家の外に出ることも叶わないという状況は、やはり一つの極限状態であろう。
そうした中にあって、子規は「足たたば」の連作短歌を作っている。

   足たたば
足たたば不盡の高嶺のいただきをいかづちなして踏み鳴らさましを
足たたば二荒のおくの水海にひとり隠れて月を見ましを
足たたば北インジャンのヒマラヤのエヴェレストなる雪くはましを
足たたば蝦夷の栗原くぬ木原アイノが友と熊殺さましを
足たたば新高山の山もとにいほり結びてバナナ植ゑましを
足たたば大和山城うちめぐり須磨の浦わに昼寝せましを
足たたば黄河の水をかち渉り崋山の蓮の花剪らましを

体が健常でも、精神(こころ)の病んでいる人は多い。何れが幸で何れが不幸かは、極め難い。
しかし、精神の健康、自由というものの姿を、子規ほどにはっきりと示してくれる人はそれほど多くはない。これは確かなことのように思われる。

もう一つ、この頃の子規の精神の自由を明瞭に示す連作短歌がある。

   われは
ひむがしの京の丑寅杉茂る上野の陰に昼寝すわれは
吉原の太鼓聞えて更くる夜にひとり俳句を分類すわれは
富士を踏みて帰りし人の物語聞きつつ細き足さするわれは
昔せし童遊びをなつかしみこより花火に余念なしわれは
いにしへの故郷人のゑがきにし墨絵の竹に向ひ坐すわれは
人皆の箱根伊香保と遊ぶ日を庵にこもりて蠅殺すわれは
菓物の核(さね)を小庭に蒔き置きて花咲き実のる年を待つわれは
世の人は四国猿とぞ笑ふなる四国の猿の子猿ぞわれは

このひねくれ方は健康だ、と思う。

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2005年3月19日 (土)

子規 その3   志の在処

「歌詠みに与ふる書」が見つからないので、その本文に立ち入って述べることが出来ない。また見つかったらそれをしようと思う。うろ覚に基いて、メモしておきたいと思う。

この、「歌詠みに与ふる書」は、伝統歌壇に対する爆弾宣言であった。それは、古今和歌集とその選者である紀貫之への徹底した批判であった。古今集を「下らぬ集」とこき下ろしたことへの反発は大きな論戦に展開していく。

子規は、万葉集を拠り所として古今集を批判するというスタイルを取っているが、万葉の昔に返れという呼びかけ方が、明治維新のスローガンである「神武創業の古に帰る」という言葉に対応するようでもある。

子規の、戦闘者としての面目は、俳諧の革新の際、神的権威を持っていた芭蕉の句の批判をするという、その世界の中枢の価値(セントラル・ドグマ)を衝くという闘い方に現れているように思われる。その闘い方が、和歌革新という大事業に取り掛かろうとした際、正に批判など思いもよらぬ権威として確立していた「古今集」を槍玉にあげるという方向に向いたのだ。果たして大変な反論が展開されるが、それに対して全く怯まず反論駁論を展開していった。

古今和歌集は、和歌の世界に留まらず、近代以前の花鳥風月的な、日本人の美意識の枠組みを規定していたといってよい。「古今伝授」という秘儀は、一種の精神論であったかもしれないが、大きな権威を持っていた。戦国末期に、後水尾天皇が、古今伝授の絶えるのを憂いて、一つの戦を止めたことが時代の転換と、古今伝授への注目をもたらした。文の武への優越を示した戦国の終息を示す象徴的なエピソードとして知られる。古今集の持つ精神的な権威は、皇室の尊厳とも結びついて極めて高いものがあったのである。

その伝統に対する批判は、ほとんど誰も思いつきもしなかった。

子規はそこに真正面から切り込んだのだ。

万葉集の価値というだけならば、その実、古今和歌集自体がその風を追うという立場に立っており、万葉集を読み解くこと自体が平安以来一つの大きな学問的課題でもあったわけであり、歴史を貫くコンセンサスがあると言ってもよい。

万葉仮名を読み解く作業は江戸時代に飛躍的に発展したが、これは江戸時代の学問の発展の歴史の中で、一つの地位を占めるものであり、国学の発展はこのことと切り離して考えることは出来ない。下河辺流留、契沖の「万葉代匠記」を経て、鹿持雅澄の「万葉古義」にてほぼ完成の域に入る。その間、賀茂真淵、田安宗武など万葉を称揚した国学者は多い。

しかし、子規が提唱した「万葉」は、「ますらをぶり」という賀茂真淵の漠然たるくくりをはるかに超えるものであったといえよう。

それは、子規が直面した時代にかかわりがある。

明治時代が、大変な政治的革命であることは、誰しも論を待たない。ところが、明治という時代の特質は、単なる政権交代ではなく、国民生活の隅々まで、ある意味精神生活の内奥にまでインパクトを与えた、総合的な変革期だったことに思い至らねばならない。

これまでの、伝統的な文化の枠組みでは捉えることの出来ない西欧文明の圧倒的な新知識が導入され、それを使いこなしていかなければならない。この時期、政治や実業の分野に最優秀な人材が投入されていったのは、この時代的要請であったと言わねばならない。

多くの新語が作られていったが、この明治期の文化創造の営みが日本人の内面に如何なる変容を要求したのかは、もっと考えられなければならないと思う。

夏目漱石は「自由と独立と己に満ちた時代」と明治を表現した。一方において、乃木大将に明治の精神の典型を見ることは最もふさわしいことでもあった。

勿論こうしたことの重要性は充分考えるのだが、子規が生きた時代は、正に明治が創出されていく過程そのものにあるのだ。慶応3年から明治35年という、明治が創造され成長発展していく過程の中にあるのだ。

人々の価値観が、政治的な目的に矮小化されることは、例えそれが必要な諸要素であったとしても、精神的な空白をもたらさずにはおかなかったのではなかろうか。

西欧のキリスト教に匹敵するほどのドグマティックな宗教を、日本はその歴史上に持つことはなかった。

そうした宗教的な側面だけでなく、文化の最も基本的な要素である言葉の問題があった。

西欧文明を受容し伝達するのに最も適している言語が、西欧諸国の言語であることは論を待たない。実際に、大学では英語などでの講義が行われることなどは普通のこととしてあった。

もし、この傾向を徹底していくならば、政治制度についても西欧の輸入なのだから、政治の論議は西欧の言葉をもってしなければならなくなるだろう。ところが、西欧の政治制度は「議会」を持ち、いわゆる公議公論を元としなければならないことになっている。

その理念が全て西欧のものであれば、政治論議は西欧の言葉でしなければならない。しかし、それでは公議公論となすには余りにも不都合であることは論じるまでもなく明らかなことだ。

西欧文明の技術の導入は、言語の面からしなければならない。

あるいは、公的な言葉は西欧の言葉を導入するしかない。こうした極論が真面目に検討されたことは、森有礼の英語国語化論などの証拠が挙げられる。必ずしも売国の暴論とは言い切れない。

奔流のように入ってくる西欧の情報を処理するために如何に国語を武装するか、これは、恐らく時代の重大な課題であったに違いない。

現代国語の成立はもっと跡付けられるべきであろうし、まだまだその混乱は収まっていないのではないかと思える節もある。

子規は、国語が自己変革しなかったならば、早晩西欧の言葉に圧伏しれてしまうことを恐れた。国語にはそれ自体の価値があり、そこに内在した諸々の価値観が、無価値になったというのではない。しかし、西欧の言葉に対して、それらを生のまま消化せずに受け入れるならば、いわばカタカナ語ばかりで本来の言葉を知らなければ全く解らないというおかしな事態が起こってくるだろう。

西欧の諸価値概念を、国語に移植する。この使命感は、西周や福沢諭吉らにも当然あり、多くの人々が尽力していくのだ。

それを、文学の世界でやる必要がある、というのが子規の問題意識であったろう。

伝統詩歌に対する罵詈雑言は、戦後激しく「奴隷の韻律」などといわれたこともあるが、いわばこうした内攻する精神の病を鋭く見越していたといわねばならないだろう。

言葉が心を規定する。心は言葉によって表れる。この相互作用は恐らく人間が人間である限り、決してなくなることのない営為であろうと思うけれど、言葉ほど不自由なものもない。言葉の目方を感じることなくして、その不自由さを痛感することなくして、言葉と付き合うことは出来ない。精神は言葉に規定される。その規定を脱しようとして言葉を破壊すれば、それは精神自体の破壊に繋がる。こうした宿命的なしがらみを覚悟して向き合い、手ごたえを感じつつ、それを改良し、使いこなそうとしていく存在、それが言葉のプロとしての文学者の使命なのだろう。

国語の世界から言えば、無から有を生み出そうという苦しみだったろう。西欧語で刻まれた概念を移植するということ、それは壮大な試みだったといえよう。

こうした言葉の上での冒険を、日本の言葉は過去にも経験していた。それが万葉の体験であったと言ってよいかもしれない。

専門歌人ではなく、実際に、日本語という言葉の海の中に生きる人々が、呼吸するように使われ、歌われてきた声、その切実な生活実感に基いた言葉を、本当の意味で言葉の生まれる場所から発生する歌を、収録しようとしたのが、古事記・万葉という事件だったのだ。

中国から移入した儒学や仏教という異質の文明体験、また漢字という中華世界の記号を持って概念操作をするという知的作業の伝統なくして、この西欧のインパクトは乗り切れなかったろうと思われる。

子規が試みたのは、国語という国民の精神の原点を、如何に世界に雄飛する国民のものとするか、の一点にかかっていたのだろう。

余談だが、林房雄氏が、明日香を「近代」と言ったことがある。確かに明治という近代と共通する時代を揚げれば明日香ということになるかもしれない。今、喫緊の課題に対して鑑とすべき原点は、明日香から生まれた万葉である、この認識は、極めて健全な自国の伝統への信頼であろうと思う。

そこに立脚して、子規は、近代人の精神の拠り所足りうる近代短歌の可能性を探るのだ。

子規歌集は、そのための試行錯誤の軌跡ではないかと思われる。

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2005年3月18日 (金)

竹山道雄氏の著作について

竹山道雄批判の本が出ていました。

丁度、「白磁の杯」を読んで、余りにリアルな描写に思わず身の毛がよだつような感じを受けたばかりでしたので、竹山道雄批判本が、今になって新しく出るほど、死してなお、その影響を無視できないのか、と思いました。

竹山道雄氏の著作で、未だにその意義を失わないものとして、勿論、他のものもそうですが、特に時代への批判としての効力を失わないものとしては、次のものをあげることができます。

その1、「昭和の精神史」
その2、「主役としての近代」
その3、「歴史的意識について」

いずれも講談社学術文庫に収録されています。

このほかに、手に入りにくくなっていますが、「ヨーロッパの旅」は、東欧、ソ連圏への紀行文ですが、共産主義国家の本質を、するどく見抜いている点で類書は少ないかも知れません。「続ヨーロッパの旅」「まぼろしと現実」などと一緒に読み直されるべきものだと思われます。

というのも、冷戦終結後、日本は方向を見失って、混迷を深めているように思えるからです。そして、それは、いわゆる「後期全体主義」的な空気が色濃くなりつつあり、暗雲のように日本全体に垂れ込めつつあるかに見えるからです。冷戦終結は、物理的な軍拡競争にソ連の経済が追いつかずに破綻した、というのが事実の一端であり、思想としての冷戦、あるいは共産主義、あるいは全体主義は、決して死滅したのではなくて、形を変えて蔓延しているように思えるからです。

「自由の悲劇」(西尾幹二)を読んだとき、その恐るべき全体主義の実態と後遺症を見せ付けられましたが、あのような人間性に対する極度の不信、軽蔑に対して、如何に個人が脆弱であるか、ということを思わざるを得ません。

これは、竹山道雄氏が繰り返し指摘した「大審問官」の謎にも繋がるでしょう。

「時流に反して」に収録されている「焼跡の大審問官」は今でも圧巻の迫力があります。

人間性というものが変わらない限り繰り返し現れる原像なのかも知れません。

「戦争責任」という観念によって全てが縛られていますが、不思議と、「共産主義の戦争責任」ということが真面目に議論されたことはないようです。
「戦争と共産主義」という本を読めば、これこそが先ずは論じられなければならない主要テーマであるはずにも関わらずです。

このことは、何度でも強調する必要があるでしょう。今、もっとも論じられなければならず、もっとも論じられていないのは、「共産主義の戦争責任」についてであるということを。

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竹島の日制定にちなんで

時局については、触れないでおきたかったけれど、どうしても触れたくなったので触れる。
竹島の日の制定で、韓国が大騒ぎしているけれど、正直、不愉快だ。

竹島の不法占拠という実態について、これまで日本の国民が余りにも忘れ果ててしまっていたかのようでもあり、今回のことは、かえって日本人の「領土意識」に目を開かせる意味でもいい刺激になると思われる。

それにしても、韓国側の盛り上がりには閉口させられる。ソウルの市議会議員が匕首持って島根県議会にやってきたなど、安重根を気取っているのか、人の国にやってきて選良であるはずの議員がテロをやろうというのか、余りにも常軌を逸していると言わざるをえない。

「日韓親善」が全ての前提であり、そのためには領土問題に目をつぶれ、といわんばかりのマスコミや政府の一部の声には、呆れてしまう。

国家の基本構成要素は「領土・主権・国民」の3つであり、領土に関する主張は、国の基本に関わる問題です。領土=国土を失うということが、何を意味するかは、ユダヤ人の歴史に明らかであり、普通の民族は、あそこまでされれば普通滅びます。

こういうと、韓国にしたって同じなんだから、ということを言う人が必ず出てきますが、当事者でありながら、傍観者的、第三者的な位置に身を置くことがかっこいいとでも思っているのでしょうか?そういう精神の退廃は断じて許せません。そうした観念論で生きていくことは出来ません。イスラエルとパレスティナの戦いがなぜ終わることがないのか。生存をかけているからでしょう。問題の性質は同じようなものです。あの場にいって、暢気なことを言えば、両方から弾が飛んでくることになるでしょう。

日本の専守防衛の立場から言っても、本土への直接侵略なわけですから、本来個別的自衛権を発動してもいいのではないかと思われますが、国際紛争の解決の為の武力行使を放棄したと憲法第9条にあるから、これも出来ない相談なのかもしれません。しかし、だとするならば、自衛隊は、本土に外国の軍隊が上陸して来ても自衛権を行使することは出来ない、ということになりはしないでしょうか。この当たりの法解釈は一体どうなっているのか、聞いてみたいところです。実際、北朝鮮には世界最大規模の12万にも及ぶ特殊部隊があります。それが、工作船のようなやりかたで日本本土に浸透した場合、自衛隊は彼らを撃退して、国の主権を守ることが出来るのか。能力的な問題は勿論ですが、法的な解釈はどうなるのか。常識は、出来るのが当たり前だ、というかも知れませんが、法体系はそうなっていない可能性があります。いざという時に、自衛隊の超法規的措置に任せるというのでは、余りにも無責任です。

あるいは、こちらが攻撃しなければ、被害も少ない、として、唯々諾々として、占領に甘んじるのでしょうか。非武装中立や無抵抗主義というのは、正にそうしたことをさしているように思えてなりません。自らの運命を、自らで担うという確固とした意志なくして、国の独立は有り得ないという、当たり前のことが思われます。北朝鮮の特殊部隊に対して、保護を依頼するのでしょうか。そしてその見返りに、北朝鮮という国に対して忠誠を誓うのでしょうか。パンを得れば、それで良いのでしょうか。

決して、空想的な言辞を述べているつもりはありません。こうしたことを考えないこと自体が、国というものを忘却し、自らの運命というものについても忘却した、思考停止の表れではないかと思うからです。

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2005年3月17日 (木)

「常識について」

自分で発する言葉に囚われる、というのは誰にも共通する通弊なのだろうか?

「常識について」を紹介する、と言ってから、「小林秀雄全集」をひっくり返して見て、全然見つからない。「常識」という短文があったが、求めているものではない。おかしいなあ、と思ってもう一度見てみる。やっと見つかった。「第9巻 私の人生観」の最後に収録されていた。

改めてざっと目を通してみる。改めて、小林秀雄氏の炯眼に感服する。「常識」について、果たしてここまで思い巡らせることが出来るか、といえば、とても出来ないと思うしかない。

かいつまんで話すことが出来るとは思はないが、断片だけでもノートすることとしよう。

「常識といふ言葉は、日常、ずゐ分でたらめに使はれてゐる。」

これは、まあ、その通りのことでしょう。

「常識といふ言葉は、もともと日本語ではないのです。英語のコンモン・センスといふ言葉を訳したものだ。訳したと言つても、訳者は、これに当てはまる適当な日本語がないと考へたから、常識といふ新語を発明したといふ次第であつた。」

ここから、トマス・ペインがアメリカ革命の指導書として書いた「コンモン・センス」という著書に向かい、更に、フランス語のボン・サンスの訳語である「良識・善識」という言葉を熟さない言葉として紹介して、「常識」という言葉の原点に向かう。

「私のお話の眼目は、さういふ常識と呼ばれてゐる、私達の持つて生れた精神の或る能力の不思議な働きにある。」

そういう次第で、デカルトという人物に行き当たるというのだ。

「彼に言はせれば、常識といふ精神の働き、「自然に備わつた智慧」で、誰でも充分だと思ひ、どんな欲張りも不足を言はないのが普通なのである。デカルトは、常識を持つてゐる事は、心が健康状態にあるのと同じ事と考へてゐた。そして、健康な者には、健康について考へない、といふやつかいな事情に、はつきり気付いてゐた。」

という。

「彼が、誰でも持ちながら、誰も反省しようとはしないこの精神の能力を徹底的に反省し、これまで、哲学者達が、見向きもしなかつた常識といふ言葉を、哲学の中心部へ導入し、為に、在来の学問の道が根底から揺ぎ、新しい方向に向つたといふ事は、確かな事と思へる。」

デカルトを、近代の学問の確立者だということは、広く定着していると思われるが、デカルトが確立したという「方法」について、改めて反省する必要があるのかもしれない。学問と常識という問題は、デカルトが直面したよりも尚一層露骨な形で眼前に展開しているように思われるからだ。

「常識とは何かと問ふ事は、彼には、常識をどういふ風に働かすのが正しく又有効であるかと問ふ事であつた。ただ、それだけであつたといふ事、これは余程大事な事であつた。デカルトは、先づ、常識といふ人間だけに属する基本的な精神の能力をいつたん信じた以上、私達に与へられる諸事実に対して、この能力を、生活の為にどう働かせるのが正しいかだけがただ一つの重要な問題である、とはつきり考へた。」

「常識」の存在を疑って、デカルトの方法は無かった、ということなのだ。「常識」は、ある、ものであり、つくりだすものではない。常識を定義して、それを古臭いものとし、新しい常識をつくりだす、というような常識という言葉の扱いは、常識について、全く反省していない無分別なものの言葉だと、言えそうである。思い上がり、ということも出来るだろう。

デカルトの辿った道筋について、じっくり書かれているところを飛ばして、次の言葉に飛びたい。

「常識といふ言葉は、どうやら定義を拒絶してゐるやうだ。」

なるほど、と頷かざるを得ない。

「一方、学問といふものは、言葉の定義を重んじなければ、発達の見込みのたたぬものです。」

これも正にその通りとしかいいようがないことでしょう。だから、

「今日の学問の発達は、言葉の定義の驚くほどの分化、細分化をもたらしたから、常識が、曖昧な、通俗な智慧と見くびられるのも、止むを得ない勢ひでせう。」

ということになる。しかし、である。

「だが、ここで考えへて戴きたいのは、常識を、正確を欠く、主観的な智慧とか程度の低い一般的な智慧とか考へるのは、常識を或る認識のカテゴリイとして、外から規定しようとする事だ。漠然とだが定義を下さうとかかる事です。」

常識に照らせば、という言葉で、学者、というか知識のある人を説得することは難しい。大体、鼻先でせせら笑われるのが関の山だ。しかし、知識或る人は、その時、常識というものに対して、基本的な間違いをしている、ということなのだろう。

「私が、常識といふ言葉は、定義を拒絶してゐるやうだと言つたのは、この働きには、どうしても内から自得しなければ、解らぬものがある、それが言ひたかつたからなのです。」

内から自得する、ということが、現代人にはどうも難しいような気がしますが、であればこそ、常識という精神の働きは、回復されなければならないように思われる。

「厳正な定義を目指して、いよいよ専門化し、複雑化して、互いの協力も大変困難になつてゐる今日の学問を、定義し難い柔軟な生活の智慧が、もし見張つてゐなければ、どうなるでせう。実際、見張つてゐるのです。」

原子爆弾を生み出した科学の力というものは、人間の生存に大変な脅威をもたらした、そんなことを考えて見れば、常識という精神の働きの衰弱というものの持つ恐るべき結果について意識できるのではないかと思われてくる。

「常識は、その本来の力を、決して大声は揚げないが、絶えず働かせてゐるのだ。生活の智慧が、空想を好まず、真偽の判断を、事実に基いて行ふといふ点では、学問上の智慧と同じものだが、常に行動の要求にも応じてゐるから、刻々変わる現実の条件に従ひ、遅疑を許さぬ、確実な判断を、絶えず更新してゐなければならない。実生活は、私達に、さういふ言はば行動するやうに考へ、考へるやうに行動する智慧を要求して止まない。」

なるほど、そういうものだなあ、ということを思う。誰でも、どんな人でも、真面目に生きようとしている人は、常識を働かせていると考えて先ず間違いなさそうだ。

「学問上の知識に、この生活のうちに訓練されてゐる智慧に直接に働きかけ、これを指導するやうな力があるとは、先づ考へられない事だが、逆に、学問上の発見や発明には、この智慧の力が働かねばならぬ事は、充分に考へられる事だと思はれます。」

含蓄のある言葉だ。後、小林秀雄氏は、「常識」という言葉を作る以前に使われていた言葉として「中庸」という言葉を見出している。孔子に始まるこの言葉の含蓄も、また興味は尽きません。

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2005年3月15日 (火)

「常識」という言葉

「常識」という言葉は扱いにくい言葉ですね。

そんなの常識だよ!という場合の常識。

それは常識にすぎない、という場合の常識。

如何様にも解釈され、都合のよいように使いまわされているという。

そうそう、また小林秀雄ですが「常識について」という文章を発表しています。

丁度今手元にないものですから、また改めてご紹介いたします。

念のため申しておきますが、山の不動さんのヒーリングは本当に尊いことと思っています。

http://yakuseido.at.infoseek.co.jp/

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「信ずることと知ること」について

小林秀雄氏の文章は、何度読んでも考えさせられます。
この「信ずることと知ること」は、何回読んだか知れませんが、そのつど強いインパクトを受けるものです。

前半はベルクソンの話で、後半は柳田国男の話になります。

このことを紹介しようと思ったのは、山の不動さんのコメントを頂いたことによります。先に「白磁の杯」をご紹介しました。

「人は幻のように世界を見る」

という、人間の認識能力の不思議さ、脆さ、特徴、特質というものについてでありましたが、現代の魔術である「科学的」という言葉の護符的な力というもの、それは決して「科学的」では有り得ないものですが、そのような言葉に宰領されている現代という時代の特徴を描いた作品でした。

丁度、同じ事を逆から言っているのが、この小林氏の文章のように感じたのです。

柳田国男氏の「故郷七十年」という晩年の著作から、氏の幼い頃の体験の話を引用しています。

「その旧家の奥に土蔵があって、その前に二十坪ばかりの庭がある。そこに二三本樹が生えてゐて、石でつくった小さな祠があった。その祠は何だと聞いたら、死んだおばあさんを祀ってあるといふ。柳田さんは、子供心にその祠の中が見たくて仕様がなかった。ある日、思い切って石の扉を開けてみた。さうすると、丁度握り拳くらゐの大きさの蝋石が、こんとそこに納まってゐた。実に美しい珠を見た、とその時、不思議な、実に奇妙な感じに襲はれたというのです。それで、そこにしゃがんでしまつて、ふっと空を見上げた。実によく晴れた春の空で、真っ青な空に数十の星がきらめくのが見えたと言ふ。その頃、自分は十四でも非常にませてゐたから、いろんな本を読んで、天文学も少しは知っていた。昼間星が見える筈がないとも考へたし、今ごろ見える星は自分等の知った星ではないのだから、別にさがしまはる必要もないとさへ考へた。けれども、その奇妙な昂奮はどうしてもとれない。その時鵯(ひよどり)が高空で、ぴいっと鳴いた。その鵯の声を聞いた時に、はっと我に帰った。そこで柳田さんはかう言ってゐるのです。もしも、鵯が鳴かなかったら、私は発狂してゐただろうと思ふ、と。」

この話を読んで、小林氏は感動した、という。柳田さんという人が分かったという風に感じたそうです。その柳田さんという人の感受性がなければ、柳田さんの学問はない、と感じたのだと書かれています。柳田氏は、おばあさんの魂を見た、ということを寸分も疑っていない、このことは、そう感じたのは錯覚だとか、異常心理だとかいうのは、その経験を素直に受け取ることの出来ない、精神の衰弱なのだということを、小林氏は言いたいのだと思います。

「生活の苦労なんて、誰だってやってゐる、特にこれを尊重する事はない、当たり前の事だ。おばあさんの魂の雄sんざいも、特にこれをとり上げて論ずるまでもない、当たり前のこと、さう言はれてゐるやうに思はれ、私には大変面白く感じられた。」

「自分が確かに経験したことは、まさに確かに経験した事だといふ、経験を尊重するしつかりした態度が現れてゐる。自分の経験した異常な直観が悟性的判断を超えてゐるからと言って、この経験を軽んずる理由にはならないという態度です。」

こういう言葉を辿っていくとき、小林秀雄氏が、いわゆる「科学的」という言葉によって、切実な経験自体を軽蔑し嘘と断定していく軽薄な世相に対して、明快なノンを投げかけていることが分かります。そして、それは、

「その生活の中心部が、万人の如く考へず、全く自分流に信じ、信じたところに責任を持つといふところにあつた」

という生き様をする人に対する、共感として現れているのだと思われます。

「何の事はない自分の懐中にあるものを、出して示すことも出来ないやうな、不自由な教育を受けて居るのである」

という柳田国男氏の言葉は、現在の教育(これは、明治以降の科学教育といってもいいのかもしれませんが)に対する痛烈な疑問符を投げかけています。

断片的な引用と、舌足らずな感想で申し訳ないのですが、もう少し、

唯物史観について、「歴史を言ふなら、先づ何を措いても、歴史を生かしてゐる人生観の変遷といふものを言はねばならぬといふ、全く常識に適った考へさへ覆って了ふ。言葉の惑わしといふものは怖いものです。」と述べています。

「言葉の惑わしといふものは怖いものです」とは、何と強い言葉でしょう。

「歴史といふものの実体は不易と流行とで一体をなしてゐるといふ古くからの考へ方に反対する理由もないのです。専門の歴史家はさて措き、普通の歴史好きといふものは、過去に生活してゐた全くの別人と、今日の隣人の如く親しく話し合ってゐるものなのだ。それが私達の歴史に対する尋常な態度であるし、そこに私達に親しい生きた歴史の実体もあるのです。」

「何処から来るとも決してわからぬ恐怖に襲はれる事は、人間らしい傷つき易い心を持って生活をつづける限り、無くなりはしないのです。それをお化けは死なないといふ言葉で言って悪い筈はあるまい。」

「追っぱらっても、追っぱらっても、逃げて行くだけのお化けは、追っぱらった当人自身の心の奥底に逃げ込んで、その不安と化するのである。人間の魂の構造上、さういふ事になる。そこで、追っぱらわれたお返しに、彼をにやりと笑はせる。笑っても、人生で何一つ実質のあるものが得られない、全くうつろな笑ひを笑はせるのです。そんな事まで出来なければ、お化けとは言えますまい。」

「懐中にあるものとは、言ふまでもなく、私達の天与の情(こころ)です。情操教育とは、教育法の一種ではない。人生の真相に添うて行はなければ、凡そ教育といふものはないといふ事を言ってゐる言葉なのです。」

この言葉で最後、結ばれています。

誤解の余地の無い言葉だと思います。

昔の人は、人生の事実に即して、思索し、学問をしました。人生の事実に外れて突拍子もない事を言う「学問のある人」に対しては一種の軽蔑さえ持つだけの強固な実人生に対する信があったわけです。今は、「学問のある人」ばかりになってしまったのかも知れません。それは、危ういことのように思われます。

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2005年3月13日 (日)

子規 その2  金州

 子規は、日清戦争に際して従軍記者として支那に渡ります。結局この頃から喀血するなど健康を害するのですが、意気は軒昂です。

   従軍の首途に
かへらじとかけてぞちかふ梓弓(あずさゆみ)矢立(やたて)たばさみ首途(かどで)すわれは

 この歌を詠んだ子規の脳裏に過ぎったのは、楠木正行が、四条畷の合戦の出陣に際し、先帝の御廟を拝し、如意輪堂の扉に書き付けたという次の歌で合ったかもしれません。

「かへらじとかねて思へば梓弓なき数にいる名をぞとどむる」

 子規の意気込みたるや、正に天を衝く勢いであったでしょう。

   金州城にて
から山の風すさぶなり故(ふる)さとの隅田の櫻今か散るらむ
たたかひの跡とぶらへば家をなみ道の邊にさくつま梨の花

   金州城外所見
もののふの屍をさむる人もなし菫花さく春の山陰
大原の野を焼く男野を焼くと雉(きぎす)な焼きそ野を焼く男
靄深くこめたる庭に下り立ちて朝の手すさびに杜若剪る

 丁度、春の頃だったのでしょう。大陸の風は寒く身に沁みたのでしょう。
 菫が武士の屍に手向けられたように咲いているのを山陰に見たのでしょうか。
 野を焼く男に、雉を焼かないように、と、心の中で呼びかけたのでしょうか。
 朝靄の深く立ち込めた中に起き出して、かきつばたにはさみをいれたのでしょう。

 とても戦場に行ったとは思えませんが、この旅行は、子規の生涯で最も遠くに遠征した記念となるものだったでしょう。

   支那より帰りて
山毎に緑うるほひ家毎に花咲かせたる日の本うれし

大陸の山は土の色で緑がありません。日本の山は緑に覆われています。その目に痛いほどの緑と、家々に植えられている花が咲く様に、心から嬉しく思ったのでしょう。

   金州
官人(かんじん)の驢馬(ろば)に鞭(むち)うつ影もなし金州城外柳青々(きんしゅうじょうがいやなぎせいせい)
城中(じょうちゅう)の千株(せんしゅ)の杏(あんず)花咲きて関帝廟下(かんていびょうか)人(ひと)市(いち)をなす

漢詩の世界を和歌に移し変えたような、一服の絵にも似た情景を詠んでいます。無論、子規の心に映った金州です。

心は世界を駆け巡ることが出来ても、体は結核に冒されて生きました。体は病んでいても、子規の心は最後まで健康だったわけですが。

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2005年3月12日 (土)

「白磁の杯」

「白磁の杯」という小説をご存知だろうか。
「ビルマの竪琴」で知られる竹山道雄氏が書いた小品で、「新女苑」に連載されたお嬢様向けの恋愛小説なのだが、とてもそんな範疇で収まるようなものでない。

逆に言うと、昭和三十年頃のお嬢様は、このような極めて高度な思想営為を、楽しみながら学ぶことが出来たのだと思うと、隔世の感がする。今の世には「お嬢様」自体が死滅していると思われるのだが・・・。

さて、憎まれ口はさておき、この小説は、中国の北宋の時代、鉅鹿(きょろく)という都市を舞台にした話です。

道教の道士が町にあらわれ、様々な魔術を行い、町の人々はみなそのとりこになります。そして、近くを流れる大河が増水して町が危うくなるのに、気付きながらも、道士さまが解決してくださると思って何の対策も打ちません。

それを憂えた下級官吏の士賢は、対策を練り、上役にも掛け合いうが、上役は、町の人々の反発を恐れて何もしようとしません。ある日、町の人々に直接訴え、道士を言い負かしに行きます。しかし、道士を取り巻く狂信的な人々と追随する多くの人々の狂乱を目の当たりにしてそれを諦め、都に登って中央政府から直接命令してもらうように、非常手段に出ます。

首尾よく調査団の派遣が決まり、士賢は鉅鹿に戻ります。しかし、そのとき鉅鹿は蜃気楼によって大河の水は澄み、町の人々は道士を讃えて躍り狂っていました。

士賢も自分の努力は空しかったのかと思い、その人々の様を見ます。都から調査団の官吏が到着して、危険な状態を見て対策を立てます。町から逃げ出す者は厳罰に処すこと、総出で堤防の修復に当たることなど、士賢がかつて作っていた計画を元に命令が出されます。

しかし、道士を信じる町の人々は従おうとしません。士賢は、結局、洪水に飲まれても苦しまないためには、道士の力を借りるしかないと思います。

中央官吏らは袋叩きに逢い追い出され、町が眠りについた夜、洪水はひたひたと町を浸し、ついに町を覆いつくしてしまいました。

士賢とその婚約者である采采の恋物語でもあるのですが、采采は道士の教えに凝っています。その本の中に「人間は世界を幻のように見る」という一節があります。

この人間の認識能力の不思議さは、魔術などとうの昔に非合理なものとして退けられている現代において、まさに合理の名の下に、論理の名の下に、猛威を振るっているではないか、というのが、竹山道雄氏の訴えるところです。

氏のこの論議は実に重要なものであり「昭和の精神史」「主役としての近代」などの主要著書は日本の現代史を考えるに当たって是非とも一読しておかなければならない、哲学書であると思われます。

士賢が読んだ、道士の幻術の書をご紹介いたしましょう。

1、人間の心は宇宙の中でただ一つの特別なものであり、実在しないものを思いうかべることができるものである。その底にはつねに、自分にも気づかない欲求があってはけ口を求めている。この要求をみたしてやると約束せよ。人間がみずから気づかずに欲しているものに訴えたときにのみ、幻をひきだすことができる。「かくあってほしい」とねがっていることを「かくある」と思わせることができる。人間は自分の要求にしたがって世界を把握する。近くは要求によって左右される。

2、人間は眠っているときには、何も水何も触れていない。しかも夢の中では、自分は見て触れていると信じている。対象がないのに、あたかもしれがあるかのような感触をもっている。これが大切な点である。すなわち幻術とは、人間のもっているこの夢みるはたらきを生かすことである。実物がなくして、しかも実物に接したときに受けるのと同じ内的感触を引き出すことである。

3、相手にする人間は、大勢であるほどよい。群集はもっとも作用されやすい。しかし、これはかならずしも、たくさんの人間が同じ場所に集まっていなくてはならないという意味ではない。意見交換さえ自由に行われれば、人間はちらばっていても群集と同じ性質のものとなりうる。こうなれば、人々は幻を語り合い、せりあう。いったんこのせりあいが始まれば、すでに魔法の影響の下に入った人々のあいだでは、熱はとめどもなく高まる。かくて、映像は個々の人間からはなれて独立して生きたものとなり、これが世の中を支配するようになる。「みながそういうのだから」とて否定できないものとなる。この集合的心理は、個人的な心情から推してはとうてい考えられないものである。集団に対して個人倫理をあてはめて判断することはできない。

4、いったんそうだと思いこませてしまえば、後は楽である。ある見方がきまると、それから後はすべてをその目で見るようになる。要求選択して知覚を組みたてる。人ははじめのうちは、自分はそれを信じていると信じたがっているのだが、やがて自分はそれを信じていると信じるようになる。この「事実についての見方」をあたえることが、幻術の要訣である。もともと人間は事実そのものの中に生きているのではなく、事実について彼がいだいている表象の中に生きている。事実を直視する人間はほとんどいない。人間は事実から出発しないで、表象から出発する。人間に、世界についてのある特定の表象の仕方をあたえよ。人間は世界を幻のように見る。

5、人間のもっている絶対的なものへの要求―生と死とか、霊魂の不安とか、あらゆる不満の救済とか、永遠の理想境とか―への暗示。儒教はおろかにもこういう問題を回避しているから、人間をふるいたたせるあたらしい力となることができない。人間はただ現実の中にのみ生きているには堪えないものである。よろしく、このような解くべからざる超感覚的な問題をある形で解決してやると唱えることによって、そこに熱狂への道をひらくべきである。

6、人間は命令されたがり、支配されたがっている。その人のいうことをきけば一切が解決して、この漠として謎のような宇宙の中で自分が安定した地位を占めることができるような人の出現を、渇望している。ことに、知ることができない未来への関心は、人間の根本的な切願である。教組の預言は、世に絶えることがない。

7、空想力という大きな機能を顧みないことは、人間の本性についてのはなはだしい洞察の欠如である。最大の恐怖を生むものは空想であるが、最大の確信を生むのも空想である。じつに空想はついに事実まで生む。(たとえば子供をほしがっている女は、想像妊娠をして腹が大きくなる。男もしばしば想像妊娠をして彼の頭をふくらます)。もともと人間は空想力によって他者と一体になっていた。子供や原始人は自他の区別をしらない。やがて知力がすすんで、反省をするようになって、はじめて空想の世界と醒めた現実とを分離することがはじまった。空想世界は、後から夢想によってえがきだされるばかりではなく、むしろ人間はこれから出発したのである。だから、人間の精神にとっては、現実と非現実の未分離が根づよいものである。人間は世界事象を神話として把握し、これによってはじめてさかんな行動力をもつことができる。

8、幻術の作用は、この両者を分離するものを除いてやることである。これさえしてやれば、人間は現実に対しては不満をもっているのだから、いまとはちがう非現実の状態へと奔るようになる。そして、現実を超えた自他の別のない集団の中にとけこむことができて、その法悦に酔って、救われる。自分ひとりで立っているということは、人間にとってのくるしい負荷であり桎梏である。

9、言葉こそは最大の武器である。多くの人々にとって、言葉はすなわち実在世界である。

この、道士の言葉を士賢は「悪魔的な言葉だ」と言います。しかし、これが「人間の知覚」の真実でもあることを、竹山氏は知っています。

現代の幻術士は、もっと大掛かりなことをしています。竹山氏は第二次世界大戦のことを念頭においています。しかし、この指摘は、現在の日本において更に深刻なのではないかと思います。鉅鹿の町の住人のように、迫り来る危機に対して、漠然たる不安感を持っているが、決して自分から動き出そうとはせず、もっともらしいことを言うマスコミに振り回される。最後には、日本も、鉅鹿の町のように歴史の表面からうずもれてしまうのでしょうか?

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山の不動さま

山の不動様、コメントありがとうございます。
「明治人の気質」が、なぜこのように、すっと大地に根ざした草のような強さを示すことが出来たのか、ということですが、本当に不思議の感に打たれます。

江戸時代というパックストクガワーナの夢破れ、新しい時代を創出しなければならないという、草創期の明治日本に、澎湃として渦巻いていたものがあったのでしょうね。

司馬遼太郎氏の「太郎の国の人々」は読んでいませんが、明治を「可憐」と表現したことについて、同感か反発か違和感か、何れかを選べと言われたら、同感に近いかもしれません。しかし、この「可憐」さは、大東亜戦争にまで続いているように感じられます。

ここで、子規について触れたのは、子規以後多くの近代短歌の流れが生じましたが、清冽な源流の飛沫を浴びて、清清しい思いがしたいというごく私的なものでした。

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あきんどさまへ

あきんどさま

コメントありがとうございました!本当に嬉しいです。

酒飲みの一夜のえにし忘られずはるかに言葉交わすうれしも
江田島の神州の正気身に受けしあきんどさんは日本男児ぞ
室蘭の地より神州の正気をば起こさむとするあきんどたふと
江田島のことをしみじみ聞くといふ年配の人のあるが嬉しき

ついつい、歌など作ってしまいました。

本当は、ひそやかに、好きなことを書き散らそうと思っていたのですが、あんまり見られると緊張しますね(^^;

でも、本当は嬉しいです。

是非またおよりください。

P.S メールでお送りいたしましたら、届きませんでしたので、こちら、本文に書かせて頂きました。


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2005年3月10日 (木)

子規  その1

正岡子規は「歌よみに与ふる書」で短歌革新を進めた人物で、近代短歌の源流に位置する人物であることは、よく知られています。

また、夏目漱石や秋山真之との親交でも知られ、「明治の精神」を体現する一人として見ることも出来るでしょう。

その精神の隅々まで明らかにするには力不足ではありますが、手元にある岩波文庫版「子規歌集」から、歌の草草を紹介したいと思います。ちなみに、戦前版のものとは編集が違います。その比較も改めてしたいと思っています。

日露戦争100周年ですが、子規は明治35年、それを知ることなく瞑目しました。享年37歳。「竹の里歌集」は彼の唯一のこされた歌集です。

俳句、短歌、写生文と、その足跡を辿るとき、爽やかな一陣の風が吹きすぎるのを感じます。多くの可能性を秘めながら、早過ぎる生を生き急いだようにも思われますが、彼の強靭な生命力は、脊椎カリエスという難病にも決して負けてはいません。

高校時代に「仰臥漫録」を読みました。「坂の上の雲」を読んで、知ったことによると思います。身辺雑記のようで、写生文のお手本のようでもありますが、朝昼晩に何を食べたのか克明な記録のような文章の中に、人を飽きさせない何かを感じました。

さて、今回のご紹介ですが、明治33年の歌です。

   我室(六首のうちから一首)

日の本の陸奥の守より法の王パッパポウロに贈る玉づさ

(念のため、読み方を ひのもとの むつのかみより のりのおう ぱっぱぽうろに おくるたまづさ)

キリスト教のことを云々して来ましたので、ちょっと目に止まりました。陸奥の守とは誰のことなのか、そのうち機会があれば調べておきます。「玉づさ」は手紙のことですね。日本の陸奥の守から、ローマ法王パッパポウロ(ヨハネパウロ?)に手紙を送った、ということですね。

さて、なんともからっとして気持ちのいい歌です。どこに感動があるんだ、などと余計なことは言わないで、ながめていると、気持ちがいいでしょう。何の衒いも、構えもなく、、法王に対して敬意も失わず、しかも卑屈にならず、堂々と、日の本の、と押し出している当たり、明治人気質というものを感じます。

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2005年3月 9日 (水)

英語の勉強をはじめて思うこと

TOEICの試験を受けます。
英語は昔から苦手で、大学受験の時も、英語が大きなネックになりました。
苦手意識が先に立って、コンプレックスみたいになっていました。

最近、物を考える上でも、とにかく英語の論文や資料などを読んで情報を取ることが出来たらどれほど世界が広がるだろうか、ということをつくづく思うようになりました。

それで、昨年末からぼちぼち英語の勉強を始めました。直接のきっかけは、シュリーマンの「古代への情熱」を読んだことでした。この語学の天才の熱気に中てられたような感じです。

とにかく、今の自分の英語力を試すのには、TOEICが一番いいということで、受けることに致しました。3月27日に開催される分です。730点以上が海外勤務条件というような基準もあるようですが、恐らく、僕の今の実力は200点〜300点取れればいい方だろうと思います。とにかく先ずは500点クリアを目指し、ゆくゆくは800点台をきちっと取れるようになりたいと思っております。

英語をやるということは、一つにはものを考える別の視点が欲しいということもありました。これは、晴山さんという方が述べていたことでもありますが、考える道具としての英語、という受け止め方です。例えば、論語にしても、英語の翻訳で読むと、漢文の書き下し文やその現代語訳とはまた一味違った感じがあるということに気付かされるということです。恐らくは、様々な言語で、少しづつ違った見え方があるのだろうと思われます。

それらも全て国語力を高めるために収斂させて行くことによって、明治に正岡子規が短歌革新をやった基本的な動機である、国語の力を高める、という目的にもつながってくるのだと思います。

勿論、子規のように、その後の国語の展開に基本的なインパクトを与えた偉大な先人に自らをなぞらえるような不遜は犯すことは出来ませんが、子規の志は、国語を愛し、国語の生命力を信じ、その中に生きる全ての人々が等しく持ち合っているものであってもおかしくはないと思い、その驥尾に付して、志だけは持ち続けたいと思う次第です。

ここで、「国語」と言った場合には、Mother Tange という意味で、母国語の事を指します。日本人の母国語は当然のことながら日本語ですが、「日本語」という外から見た形で形容するのは、客観的なようでその実、最も大切な「内なる感覚」を喪ってしまうのではないかと思われ、「国語」という、その言葉の中に生きるものにのみ許された言葉を使いたいと思うわけです。

今、義務教育の学校において、「国語」ではなく「日本語」と表記していることが判明して問題になったことがあります。単なる言い方の違いではないように思います。大学においても、かつては「国文学科」であったものが「日本文学科」となったりしているようです。「国文学」と言った場合には近代以前のもののみをさすようなニュアンスを持ったりするようです。確かに、外国人による日本語の作品が増えつつある中、必ずしも日本語を母国語としない人の文学が日本文学の世界に入ってきているのかも知れません。しかし、その大部分は直接日本語で書かれたというよりもまだまだ翻訳されたものであることが多いように思います。翻訳されたものであっても例えばラフカディホ・ハーンのように既に明治日本の文学を語る上で独特な地位を占めている人もあります。現代でも例えばC・W・ニコル氏は「勇魚」などの作品で日本人を主人公にした大作を著しています。そういうことをひっくるめて考えても、やはり現代文学も含め「国文学」というべきではないかと思います。そう呼べるのは、日本語を母国語とする国民だけなのですから。

これは、発展させれば「国家論」につながっていきます。先年、若くして亡くなられた碩学、坂本多加雄氏は、「国家学のすすめ」において「国家とは、ともすれば想定されているように、私たちの「外側」にあるものではなく、私たちの「内側」に「実在」するものだということである」と、指摘しています。晩年の乃木大将が、学習院の生徒たちに対して、「日本の国はどこにあるか」と質問したときに、色々な答えがあるのを聞いた後、「日本の国は心の中にあるのだよ」と諭されたというエピソードがありますが、「国家」を考える上で、忘れてはならない視点が、この「内なる国家」というものであると思われます。

「国語」もその通りで、自らのうちにあるものとして、つまり生命としての言葉を実感するとき、そこに「国語の生命」というものもまた発現するのではないか、そう思われてなりません。

符牒としての言葉というものは確かにあると思われますが、生命としての言葉というものがその根底になければ、言葉そのものに対する信頼というものも持つことは出来ないのではなかろうかと思われます。このセオリーは、普遍的なものとして論ずることも可能でしょう。キリスト教圏においては、ヨハネによる福音書の冒頭に「始めに言葉あり、言葉は神なりき、よろずのものこれによりてなり、これによらでなるものなし、これに命あり、これは人の光なりき」とあることによっても確認できるでしょう。イエスは「口より入るものは、あなた方を汚すことはできません。口から出るもの(即ち言葉)が、あなた方を汚すのです」と述べました。イスラム教においては、聖典であるコーラン(クラーン)は、アラビア語のもののみが本物であり、各国語訳は参考書に過ぎないことを明確にしています。これも、アッラーの言葉がアラビア語で書かれたそのことによるわけで、翻訳では神の真意は伝わらないということなのでしょう。仏教でも、その例を挙げることは難しくないでしょう。

つらつらと書いてしまいましたが、要するに今、日本人自身の国語の力が大変衰弱していると感じているわけです。

それに反して、英語は国際語として、隆盛を極めています。勿論、他の国際語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、(ロシア語)、(中国語)などの世界も厳然として存在します。
それらの言葉に匹敵する力を秘めていると思われます。日本語はその連続性、その受容性など極めて柔軟で生命力に富んだ言語であると思うのです。そして、そこには偉大な価値が秘められていると思うのです。韓国人の呉善花氏は、日本文化を巡る評論活動で活躍されていますが、彼女は直接日本語で示唆に富んだ論文を次々と生み出しています。「日本の文化はアジアとも違うし、欧米とも違う。独特な要素を抱えていて、日本はそこに根を持って一個の自立した文明を展開してきた国」であるという指摘をされていますが、ハンチントンの「文明の衝突」の中でも、日本文明は、西欧文明や中国文明などと対等の独立した一個の文明として論じられており、ある意味、日本人自身が一番日本文明の独自性や特性について無自覚なのかもしれないわけです。

日本文明の核にあるものは言葉であると思われます。その意味でも、国語の生命力を回復せしめることが大きな意義があると思うのです。
そのためにも、他言語、特に世界を席捲している英語というものを知ることは必要であり、また不可欠なことのように思われるのです。

単なる英語の勉強を始めた程度で、何を大げさな、と、10人いれば10人からの非難の声が聞こえてきそうです。
しかし、決して単に与太を述べたつもりはありません。僕という存在の小さなチャレンジについては憫笑して頂き、しかし、国語の生命力の回復という問題提起については、どこか心の隅においておいて頂きたいと思う次第です。

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2005年3月 7日 (月)

『人間の建設』、今読了!

久しぶりに読み返しました。余りにも新鮮なのでびっくりです。
新潮社は、何で此れを文庫にしないのか。

『人間の建設』で語っている、日本の現代知性の代表的な二人の言葉は、今こそいっそうの精彩を放つだろうに。

目次もない本で、見出しも編集者がくっつけたものだと思うけれど、とっかかりにはなると思うので、書き出してみました。

『人間の建設』  岡潔・小林秀雄

学問をたのしむ心
無明ということ
国を象徴する酒
数学も個性を失う
科学的知性の限界
人間と人生への無知
破壊だけの自然科学
アインシュタインという人間
美的感動について
人間の生きかた
無明の達人
「一」という観念
数学と詩の相似
はじめに言葉
近代数学と情緒
記憶がよみがえる
批評の極意
素読教育の必要

恐らく、多くのおしゃべりが止むだろうと思われる位、インパクトがあると思います。

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2005年3月 6日 (日)

ほっと一息。。。

やっと少し手を入れることができました。

記事は勢いで書けるけれど、レイアウトなどは集中しないと出来ません。

この間、斉藤孝氏の「10枚の原稿を書く力」(だったと思います)を読みましたが、勢いだけだと5枚がせいぜいかなあ。

構想力、構築力を持ちたいものです。

澤田昭夫氏の「論文のレトリック」も読みました。「論文の書き方」の方は未だ読めてません。

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2005年3月 5日 (土)

「新約聖書」を読む マタイによる福音書 第9章、10章

第9章にいたって、はじめてマタイという人が出てくる。
恐らく、(私は、詳しくキリスト教を知らないので、間違っていたら訂正するが)このマタイ伝を顕した人のことだろう。

彼は、収税吏 tax collector の一人として登場する。
イエスは収税所に座っているマタイという男を見て、「Follow
me」と一言声をかける。彼は立ち上がってイエスに従う。
イエスの弟子取りは、大体このようである。 (9)

この章の1から8までのエピソードは、律法学者が、イエスに対して疑問を抱くところである。

イエスが中風患者を癒した。その部分は次のように書かれている。

When Jesus saw their faith, he said to the paralytic,
"Take heart, son; your sins are forgiven."

気付くことは、イエスは常に「信仰 Faith」を見ていることだ。
「信仰」のないところでは、イエスであっても「奇跡 miracles」を起こすことは余りない。

ここで、律法学者 the teacher of the law が思ったことが、やがてイエスを十字架に連れていくことにつながると言っていいだろう。
彼は思った。
This fellow is blaspheming.

この「blasphem」という言葉は、辞書で引いてみると次のようである。


a.. blaspheme
【他動】 冒とくする
【発音】blaesfi':m、【@】ブラスヒーム、ブラスフィーム、【変化】《動》blasphemes

| blaspheming | blasphemed、【分節】blas・pheme
a.. blaspheme against God
神を冒とくする
a.. blasphemer
【名】 冒とく者
a.. blasphemous
【形】 冒とく的な、不敬{ふけい}な◆名詞 blasphemy(神の冒とく)の形容詞形。irreverent や impious よりもはるかに重大で侮辱的な態度・行為
を表す。かつては教会から破門されるほどの強い意味を持っていた。現在では宗教以外の事柄に関しても用いられるが、非常に強い意味合いを持つことには変わりない。

以上、極めて強い意味で、「神を冒涜する」という意味の言葉である。


「Fellow」は、「仲間」とか「やつ」など、かなり親しい間で使われる人をさす言葉だが、聖書では、かなり突き放して見下した感じで使われているように感じる。ここでは、「この人は」となっているが、「この者は」のような感じの方が語感として合うかも知れない。

なぜ、神を「冒涜」していると思ったのか。それは、
「sin are forgivn」という言葉にある。

「罪を許す」権能は、唯神にのみある、ということであり、人の子が「罪を許す」などということは、神の権能を侵す者である、というのが、この律法学者の思念であったろう。

ところがイエスは、律法学者のそんな思いは直ぐに見抜く。
イエスからすれば、どうでもいいことなのだ。だから、次のように言った。
Which is easier: to say, 'Your sins are forgiven,' or to say
'Get up and walk.'?
「どちらが簡単だと思いますか。「あなたの罪は許された」と言うのと、「起きなさい、そして歩け」と言うのと。」
But so that you may know that the Son of Man has authority
on earth to forgive sins...
「しかし、そのことがあなた方に分かるように、人の子は地上において罪を許す権威を持っているということを・・・」

つまり、イエスは、わざと律法学者たちの前で、彼らの神経を逆撫でするような言葉を使ったのだ。
それは、イエスにとって、つまり、彼の宗教にとっての重要な事項を顕すことであったろう。

Son of Man が、 forgive sins という authority を持つということを。

この一事が、重大な宗教改革宣言でもあったろう。

神の権能を人の子が持つことを宣言したのだから。そしてこれは人の子=イエスのものとしたのだけれど、確かに、聖書では人の子といえばイエスであり、常に単数形で使われることばでもあるのだが、この言葉自体は、人間の子、つまり人類そのものの意味になる。

この解釈は、イエスを通じてしか救われないとするキリスト教の恐らくは基本となるところであろうけれど、イエスの業は、イエスだけのものでないことは、イエス自身が証明しているとも言える。それは「信仰の力」ではあっても、イエスという神の子にのみ与えられた権能ではないのだ。

それにしても、イエスはあえて挑発をしているとしか思えない。

この章では、イエスが行った「挑発」の数々を記している。

9から13まで、イエスは、収税人や罪人と席を共にして食事をする。どちらも嫌われ者であることは言うまでもない。パリサイ人(ひと) Pharisees  は、イエスの弟子に疑問を
ぶつける。それに対してイエスはこたえる。
It is not the healthy who need a doctor but the sick.
「医者が必要なのは健康な人ではなくて病人である」
そして、ここでも挑発している。
But go and learn what this means:'I desire mercy, not
sacrifice.'
「”私が願うのは、慈悲・憐れみであって、生贄(いけにえ)ではない”ということの意味を学んできなさい。」
この「sacrifice」は、基本的には否定的な意味ではない。「犠牲」は尊い行為として一般に知られており、この時代にあってもそうであった。しかし、パリサイ人に向かって「生贄」よりも「憐れみ」を(神が)願っている、という言葉、これは恐らく、旧約聖書の何処かに記された言葉なのだと思われるが、これを突きつけたのは、恐らくは、「生贄」に熱心で、「慈悲」に欠けていたパリサイ人への痛烈な批判だったのだろう。

イエスの振る舞いは、イエス自身の出身母体とも言えるパプテスマのヨハネの弟子たちから見ても疑問のあるものだった。
14から17まではそのことが記述されている。
イエスは必ずしも断食を否定しているわけではない。しかし、それに拘ってもいない。

有名な
New wine into new wineskins
(新しい酒は新しい酒袋に)
という言葉はここで語られている。

18から25までのエピソードも重要である。
イエスが初めて死者を甦らせたからだ。母親が娘が死んだ。あなたの手を置いて下されば、生き返るでしょう、と母親は言う。
イエスは言う。
Your faith has healed you.  (汝の信仰汝を癒せり)
人々は最初イエスを嘲笑う。
そんなことばできるものかと。ところがイエスが手を取ると少女は起き上がった。
そして、このうわさが地方全土に広まる。
26から31までのエピソード。
イエスは盲目の者を癒す。ここでイエスは尋ねる。
Do you believe that I am able to do this?
盲人は答える
Yes,Lord
イエスは言う
According to your faith will it be done to you. (汝の信ずるごとく、汝にまでなれ)
すると、彼らの目は見えるようになった。
イエスは注意する。
See that no one knows about this
誰にも知られないように注意しなさい。
しかし、彼らはその地方全体にイエスのことを言い広めてしまったのだ。

次には悪霊に憑かれて口が利けない人が連れてこられる。
これも物が言えるようになる。

パリサイ人は悪霊の親玉が悪霊を追い出してるだけさ、と嫉視して言う。なぜなら、彼らには人々を癒すということが出来ないからである。

こうして全ての町や村を巡り、公会堂で説教をし、神の国の福音を説き、障りのあるものや病んでいるものを癒し、弱り果てている人々を深く憐れんで歩いた。しかし、するべきことは多いが、働き手が少ない、と感じられ、更なる働き手として弟子たちを送り出すことをきめるのだ。

ここまでが9章の内容である。

いわば、キリスト教の伝道の原型である。やっていることは、イエスの時代から現代まで、殆ど変わらないのではなかろうか、と思われる。
ここから最初のイエスの弟子たちの伝道が始まるわけだが、第10章では、イエスがいわゆる12人の弟子たちに懇切丁寧な注意を行っている。
この12人の名前は、
ペテロ(シモン)とアンデレ(兄弟)
ヤコブとヨハネ(ゼベタイの子、兄弟)
ピリポとバルトロマイ
トマスとマタイ(収税人)
ヤコブ(アルパヨの子)とタダイ
熱心党のシモン(熱心党=Zealot)とイスカリオテのユダ
このように対になって記されている。
いわば、聖書の副主人公たちである。

この、いわばスーパバイザーとしてのイエスが、弟子たちに教えた伝道の心得は、いくつかの点で、現代でも行われているもののように思われる。
イエスは、弟子たちに、自分の分身としての教育を施しているのだ。「伝道者」の原点がここにある。

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「新約聖書」を読み始めて

何で、聖書など、読み始めたのだろう、と自問する。
別にクリスチャンでもなし、どちらかといえばキリスト教には反感を持っている方だ。
その狭隘さ、その独善、その傲慢さ、その偽善に対して。

しかし、いま、世界を風靡する現代文明の源に、キリスト教があるのであれば、これを知らずして、現代世界で起こっていることの理解が、不十分になることは、容易に予測できよう。

そして、幸か不幸か、彼らの宗教は、典拠がある。神との契約が、彼らの宗教なのだから。

イエス・キリストという人物の実在性はさておき、その影響が現代に及んでいることは誰も否定できないだろう。その影響力が、彼の実在性を保障しているとも言えるかも知れない。

大体、2千年前の、当時の文明の中心であるローマ世界から見ても、更に遡ってメソポタミヤ文明またエジプト文明から見ても明らかに辺境であるユダヤの地において起こった小さな宗教的事件であり、詳細な記録など、残りようもないものである。

ところが、残った。彼の行った数々の奇跡の記憶と、彼が約束した、人類の救いという信仰と共に。

丁度、今日、マタイによる福音書を読み終えた。28章からなるこの第一の福音書の読後感だが、非常に理知的な感じを受ける。勿論、水の上を歩いたとか、5つのパンを5千人に分け与えたとかいう奇跡そのもののことを言うのではない。語り口は極めて冷静に、事実を追っていくというスタイルを取っている。だから余計に、不思議に思うのだ。

細かいことはまた別に記したいと思うが、イエスという人物が人々の前に現れて、そして十字架に架けられ、復活する、というところまで、一気に連れてこられたという感じがするのだ。

多くの断片的に知っていた数々のキリストのエピソードは、なるほどここに書かれていたのか、と頷けた。

色々なことを思わせられるものだ。

新約聖書のテキストは、本来ギリシャ語だという。また長い間ラテン語で読まれてきたものであり、英語の聖書は翻訳の翻訳の翻訳というものでしか有り得ないことは致し方ない。しかし、多くの英語圏の人々が聖書をどのように受け取っているかということは、むしろこの方が分かるというものだ。英語そのものの特徴かもしれないが、極めて平易な言葉でつづられている。日本語の約は何箇所か飛ばされていたりするのだ。

また、旧約聖書のことが分かれば、きっともっと面白く読めるのだろうと思われる。

でてくる預言者 prophet たちの言葉の引用と、その預言の成就として、様々な事件が語られていくからだ。

次は、マルコによる福音書に進む。この際、黙示録まで全部英語で通読してみようと思う。

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「新約聖書」を読む マタイによる福音書 第8章

山上の垂訓以降

さて、イエスは山から下りる。すると、おびただしい群集が後をついてくる。

群集(large Crowds)という言葉は以後、随所に登場する。そして、イエスの行くところ常について回るのである。

そして、その中には常に病に苦しむ者がいる。
その中でも、繰り返し登場する典型は、
らい病患者 leprosy である。
また、中風患者 paralyzed である。
そして、悪霊に憑かれた者 demon-possessed である。

当時、このシモンの地、ユダヤの地に多くいた人々なのだと思われる。


また、イエスに群がる群集を見て寄ってくる別の者がいる。
それが、律法学者 teacher of the law である。

最初、イエスは、優れた律法学者と思われたのかもしれない。
19で、一人の律法学者が、イエスに向かって、「先生、あなたの行かれるところに、どこへでも従います」という。

このときイエスは、
Foxes have holes and birds of the air have nests, but the
Son of Man has no place to lay his head. (20)
という。
狐には穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子には頭を横たえる場所もない、というフレーズだ。

軽い自嘲さえ感じられるが、無限のやさしさも感じられる、言葉であるように思われる。
以後、休む間も無く、教えを説くためにあちこちを歩き回られるわけだが、そのことが既に暗示されているようにも思われる。
しかし、やがて彼らは、イエスを告発するものへと変わっていくのだ。

前後するが、イエスは、癒された人々に対して繰り返し、言われる。

You don't tell anyone  (4)
(このことを誰にも話さないように)

これは、噂が一番早いスピードで広がるやりかたでもあるが、イエスとしては必ずしもそうした事を狙ったわけではないだろう。
病が癒されるということは、イエスにとってはむしろ当たり前のことに属するのであり、苦しむ人に対する憐れみによって、癒しを施されるのだが、それは次の言葉の通りのことであったろう。

Go! It will be done just as you believed it would! (13)
(行け、あなたの信じたとおりになるように)

この言葉は、ある一人の百卒長  a centurion にかけられたものであり、イエスは、彼の信仰に深く感動している。このエピソードは、この前にあるところの、「権威あるもの」ということに対応して、印象的な話である。ユダヤ民族の宗教を超える契機を、既にここに見出すことも出来るかも知れない。  

信仰の力、ということを弟子たち disciples にも繰り返し説いている。

イエスが湖のほとりから、舟に乗り対岸に渡ろうとした際、激しい暴風雨が襲い、舟は呑まれそうになる。
このとき、イエスは眠っていた。
But jesus was sleeping.  (24)

さりげない一言だけれども、イエスという人の姿が彷彿と浮かんでくるところだ。

弟子たちが、
Lord,save us!We're going to drown!    (25)
主よ、お助け下さい!沈んでしまいます!
と、イエスに泣きつく。

するとイエスは、
You of little faith,       (汝信仰薄きものよ・・・君たちはほんのわずかな信仰しかもっていないのだねえ)
why are you so afraid?   (何でそんなに恐れることがあるんだい?)
と、のんびりした答えだ。  (26)

このフレーズは何回も出てくる言葉だが、イエスが信仰薄い弟子たちを、根気良く導いていこうとされる様が良くあらわれている。

28から34までの物語は、ドストエフスキイが「悪霊」で取上げた部分でもあるが、確かにちょっと不気味なエピソードでもある。

ここ、ガラダ人の地で、墓場から出てきた悪霊に憑かれた二人の者が、イエスに出会う。
彼らは乱暴者で、誰もそのあたりの道を通ることが出来ない。
突然、彼らは叫んでいう。
What do you want with us, Son of God?
Have you come here to torture us before the appointed time?
(あなたは何でやってきたんですか?神の子よ!まだそのときでないのに!)
悪霊の叫ぶ言葉は興味深いといえる。
彼らには、the appointed time がある、ということを認め知っているのだ。
そして、彼らは、自分たちを追い出すならば、遠く離れたあの豚の群れの中に使わしてください、という。
そして、その通りになった。すると、豚の群れは駆け出して崖からなだれを打って湖に飛び込んで死んでしまう。
豚飼いは、そのことを町に行って話す。
町の人々は、イエスに、この地方から去るように頼む。

悪霊が、イエスに復讐した、という図である。
ポツっとでてくるエピソードで、余り気持ちのいいものではない。

第8章はここで終わる。

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2005年3月 3日 (木)

「新約聖書」を読む マタイによる福音書 第5章から7章の感想

イエスの教えは、単純なようで錯綜としている。矛盾があるようにも見える。しかし、これは、致し方の無い矛盾錯綜であるように思われる。いかなる狡猾なる者であっても、欺き得ないように語らねばならなかったからであろう。「あなたはこういったではないか、なぜ救われないのか」という抗議を予め封じているように思われる。だから錯綜するようにもみえ、前後矛盾するようにも見えるのだろう。

イエスの言葉で、すっと入って来る素直な部分と、極めて厳しく、錯綜としている部分とのコントラストがある。それが丁度内容のコントラストにもなっている。前者は素直なものへ、後者は狡猾なものへの言葉であったように思われる。実際に議論好きで通るユダヤ人に対して語る言葉は、論理的に万分の一の隙もあってはならなかったのであろう。それがイエスの言葉の錯綜とする所以であろう。それにしても、イエスの偽善者”hypocrites"に対する怒りの激しさを感じずにはいられない。直情径行な人だったのだろう、と思われる。

群集は、必ずしも、その語る内容自体に、驚いたのではない。その言葉が、「Authority」権威あるもののように語られたことによるのだ。そして、「not as their teachers of the
law.」「律法学者のように語られたのではなかったから、というのだ。この律法学者というのも曲者だが、恐らく、書いてある言葉を棒読みに、何の感動も無く押し付けるようなものの言い方でしか、語れなかったのだろう。イエスが、律法学者たちと違ったのは、ただ、「he taught as one who had
authority」であったからなのだ。

これは、同じ教えであっても、棒読みで語られるのか、その言葉を生きたものとして語るのかで、受け取る側の印象として、天と地の差が生まれるのであって、これは現代にもそのまま通じることだと思われる。

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「新約聖書」を読む マタイによる福音書 第1章から第7章まで

新約聖書のマタイによる福音書を英語のテキストで読む。日本語が対訳されているが、部分部分で飛ばされているところもあるので、英語のテキストの方が読み易い。所々補足的に日本語訳を見るという方がいいらしい。

明治の翻訳は文語文であり、こちらの方が分かり易いし、威厳を感じさせるべきところで権威を持ってその雰囲気を伝えることが出来ているように思われる。

マタイによる福音書の第1章の1から17まではいわばイエスの系譜である。18から25までがいわゆる処女懐胎神話だ。

第2章は、東洋の賢者を意味する「MAGI」と、ユダヤの王ヘロデの対話から始まる。

MAGIたちは、星に導かれて、ユダヤ人の王として生まれた御子を拝みに、ユダヤまでやってきた。

その話を聞いたユダヤの王ヘロデをはじめエルサレムの全ての人々は不安を感じた。そこでヘロデ王が、祭司長(ユダヤの神殿で祭りを行う官職のことだろう)、律法学者を全て集めてMAGIに、CHRISTはどこに生まれるのかと問う。

MAGIは、「ユダヤのベツレヘムです」と預言者の言葉を引きつつ答える。

そこで、ヘロデ王は、MAGIたちに、ベツレヘムに行って調査して報告するように委嘱した。その理由は、自分もMAGIたちと同じようにその御子を拝むためだという。

ここまでが1から8だ。

MAGIは、星にその御子のいるところまで導かれる。

Having been warned in a dream

夢の中でお告げを受ける。ヘロデ王のところへ帰ってはならないと。それで別の道を通ってMAGIたちは自分の国へと帰る。

an angel of Load のお告げは、ヨセフにもくだる。

Get Up! Take the child and his mother and escape to Egypt.

起きなさい!御子とその母を連れてエジプトに逃げるのです!私が知らせるまでそこにいなさい。ヘロデが御子を殺すために探しています!

ヨセフと御子とその母は、お告げにしたがってエジプトに逃れます。ヘロデ王はMAGIたちの報告を待っていましたが、OUTWITTED(出し抜かれる)されたことに気付いて荒れ狂います。そして、他のものを派遣して、ベツレヘムとその付近の地方にいる2歳以下の子供をことごとく殺害しました。

これが、9から18までの物語です。

19から23は、ヘロデ王が死んだ後、An angel of the Load がヨセフの夢に現れイスラエルの地にもどるように命ずる。そして、ガリラヤのナザレという町に住むことになるところまでを語る。ここまでが第1章だ。

イエスの物語の壮大な幕開けにふさわしいエピソードという感じがする。

第3章は、荒野のヨハネ、パプテスマ(洗礼)のヨハネの物語とそこにイエスが洗礼を受けに来て、天からの声が「This is my Son, whom I love; with him I am well pleased.」と、イエスを呼ぶところまでである。

第4章は、the Spirit によって荒野に入り、40日40夜、悪魔(devil)に試みられるという試練を受ける。こう見ると、悪魔は言わば神の試験官でもあり、教官でもあるような感じもする。

そしてそこでは、旧約聖書の言葉によって論争がなされるのだ。悪魔は旧約聖書の言葉を引用してイエスを試す。悪魔は全世界を示して、私の前にひれ伏して拝むならば、これら全てをあなたにあげよう、という。イエスは、"Away from me Satan! For it is written:'Worship the Load your God, and serve him only.'"と答え、悪魔を退けた。

これで試練は終わり、悪魔は去り、天使らがイエスの元にやってきて使えた。ここまでが1から11までである。

ここで、しばらくの時間があるのかどうか分からないが、言葉の上では、When と、直ぐその後に続いて、パプテスマのヨハネが捕らえられたと聞いて、イエスはガリラヤへ向かうことになる。そしてこのときから、イエスはPREACH(説教)をはじめるのだ。その言葉は、パプテスマのヨハネが言っていたのと同じ言葉でつづられている。"Repent,for the kingdom of heaven is niear."と。

そして、シモンと呼ばれた猟師のペテロとアンデレ兄弟を、人間を漁るものにしてあげようといって弟子にしたを始め、ガリラヤ全土の synagoguesで説教をし、病気を癒すなどの奇跡を起こす。その噂はシリア全土に広がり、おびただしい群集がイエスに従うことになる。第4章後半の12から25まで、イエスの伝道の出発とその様子を記していることになる。

第5章は、有名な「山上の垂訓」となる。ここから、イエスの説いた具体的な説教の内容が語られ、第6章、第7章の終わりまで記されている。

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