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2005年2月22日 (火)

日記を書くということ

 日記を書くという行為は、本来、極めてプライベートな行為であるはずだが、一方で、未来への証言という使命感や、日々の思いを知ってもらいたいという欲望が、その中にないとは言い切れないところに、不思議な魅力があるものだ。そもそも、人間は、個体としては個々別々に存在しているようでも、他人とのつながりを求めてやまない性向を持っている。他人にはいえないと思うような心の内奥ほど、人に知ってもらいたいと心の底では願っていたり、本当に大切に思う人のことであればあるほどその人の本心を知りたいと思うようになる。

 効用、といったが、第二次大戦中には、逆に、戦死した兵隊さんが克明につけていた日記が敵方に拾われて、情報漏洩につながるといったこともあったらしい。ただし、日本語は少なくとも3種類の文字がある上に、達筆であればあるほど同じ日本人でも中々読むのに苦労するようなものも少なくない。あちらの情報部は相当業を煮やしたことだろう。敗戦後日本にやってきたアメリカ軍を中心とする占領軍(進駐軍)が行った占領政策の中で、日本語の表記から漢字をなくし、ローマ字表記にしろという乱暴なことが行われそうになったという話も、なるほどとうなづけないこともない。

 人生万事塞翁が馬。国にとっても個人にとっても何が幸いするか分からない。アメリカは日本の占領行政を円滑に進めるためににわかに日本語の出来る要員を養成した。その中に、エドウィン・O・ライシャワー氏など、貴重な知日家が生まれたのだから。

 しかし、正しい理解が共感や同情を呼び起こすとは限らない。ある本に、ヒットラーとスターリンはお互いに深く相互理解に達していたからこそ、決して相容れない存在であることを確認し、戦争するしかないと思い定めたのだとある。さもありなん。この例は余りにもグロテスクであるが、現代に照らしてもこうした関係は決して珍しいことではない。アメリカとビンラディン、パレスティナとイスラエル、北朝鮮と日本、などなど。

 相互理解というものが成り立つ限界線というようなもの、それが文明圏というものなのだろう。異質の文明圏の間には齟齬が起き易い、という。基本的な考え方のレベルに差があれば当然のことだろう。心の奥底のところを明かすことそれはいかなる文明圏にあっても難しいことなのだと思う。隠そう隠そうと思うようなものは本当の意味での秘密ではなく、つかみたいつかみたいと思ってもするりと指の間から滑り落ちてしまうもの、それが本当の秘密と呼べるものなのだろう。秘すれば花、という。秘せざれば花ならず。文明の本質は薄命の彼方にあって常人の手の届かないところにあり、それでいいのだ。生命の源というものはセてオてそういうものではなかろうか。

 ところで、本人にとってはかけがえのない体験であっても、ありふれたものとして扱われることもある。どんなにありふれていようと、本人にとってはたった一度の大切なことであっても、そんなものに価値はないのだと。しかし、そうしたことの集積が、ある意味日記というもののありようではないか。当たり前のことがつづられていく。それだけで価値がある。その価値というものは、その人をかけがえのない人だと思う人がいる限り、生き続けるものなのかもしれない。その情熱がある限り、人は人として生きていくことが出来るのかもしれない。

 文意甚だ通らず。寛恕を冀う。

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