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2005年2月

2005年2月25日 (金)

読書

一日一冊読破を目指して、読書に励む日々。
但し、雑読の範囲を大きくは出ていません。
何のために読書をするのか。その目的をはっきりさせずに読むのは、無駄な時間を過ごしているようではありますが、それなりの発見はあります。

英語をマスターしたい、という漠然とした思いで大学以来十何年振りに英語に向き合っていますが、漫然としていてマスターできるものでもありません。取り合えずTOEICを受けてみようと思い、3月27日の試験の申し込みをしました。

「お金と英語の非常識な関係」上下、「他人より先に洋書を読んで億万長者になろう」などを読んで、要するに漫然と「英語をマスターしたい」などという姿勢では先ず無理だということが良く分かりました。

それで、その中に紹介されていた「THE LITTLE MONEY BEBLE」という本をAmazon.comで購入してぱらぱら見ています。「金持ち父さん」も読みましたが、お金についての勉強をしっかりしておきたいという気持ちがありますので、そのためにも英語の本を読めるようになろうと、当面の目標を定めました。

これは、読書にしても同じことだと思われ、もう少し意識して読書するようにしよう、などと思っております。

年の初めに一番最初に読んだのが「国家破産以後の世界」(藤井厳喜著)というもので、極めてシビアに日本の財政状況について書かれた本です。この本を読んだので、この方の書いた本を軒並み読もうと思って何冊か購入しました。「円の消える日」「テロから超限戦争へ」はこれから読もうとしています。「新円切替」を昨日読み終わり、何とも言えない気分になっております。

経済には元々疎かったのですが、今、経済が分からないと政治も軍事も語れません。そのことが痛いほど良く分かりました。

とにかく、政治が悪いと他の全てで頑張っても、みなだめになってしまうということが良く分かります。しかし、その政治を許しているのが国民なのだから、結局、政治は国民のレベル以上には上がらないということなのでしょう。

国際情勢にしても、経済にしても、英語が出来ないと触れられる情報が日本語になっているものに限定されてしまうので具合が悪いわけです。だから、英語の勉強を始めたことと、国際情勢、経済の勉強を始めたことは必然性があるのです。

しかし、だからといって、英語が優れていて日本語が劣っているなどとは露ほども思いません。たまたま、イギリスが世界帝国をつくりあげ、それを第2次世界大戦でアメリカがそっくりそのまま受け継いだために、英語が通じる範囲が極端に広くなっているというだけのことでしょう。

日本語は本来きめ細やかな心情を表すのに優れている言語ではないかと思います。勿論、他の言語を知らないところで言っても説得力はないのですが、日本語と日本文明の持つ良さというものを、日本人が自覚して、異文明との間に適切な架け橋をかけていく作業をしていかねばならないということを思います。

まあ、余り気を張ってもいけないのですが、日本人たる意気込みをもって英語を学んでおります。(肩に力が入りすぎですね^^;)

日本語論について、思っていることを書いてみようかと思います。雑文ですから、話があちこちするのはお許しください。

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2005年2月24日 (木)

”BLOG”をはじめるのが簡単だという証拠

”BLOG”という言葉が気になって、「ブログではじめる超速起業入門」という本を買ったのが一ヶ月前位。まだぱらぱらと眺めた程度で詳しく読むのも何となく億劫だったので、そのまま放置状態にありながらも、”BLOG”という言葉だけはどこかに引っかかっていたようだ。

それで、ずっと会員でいながら全くそのサービスに関心を示してこなかった@NIFTYのサイトを、メール関係のトラブルで開いてあちこちクリックした中で、この”ココログ”のサービスに行き着いた。

それで、これも何気なく眺めているうちに、ものの1時間もかからずに、この”BLOG”を立ち上げ、記事など書いているのが可笑しいようで、未だ実感が涌かない。

しかし、それもまた良しとして、とにかく何か書き続けようと思っている。

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2005年2月22日 (火)

日記を書くということ

 日記を書くという行為は、本来、極めてプライベートな行為であるはずだが、一方で、未来への証言という使命感や、日々の思いを知ってもらいたいという欲望が、その中にないとは言い切れないところに、不思議な魅力があるものだ。そもそも、人間は、個体としては個々別々に存在しているようでも、他人とのつながりを求めてやまない性向を持っている。他人にはいえないと思うような心の内奥ほど、人に知ってもらいたいと心の底では願っていたり、本当に大切に思う人のことであればあるほどその人の本心を知りたいと思うようになる。

 効用、といったが、第二次大戦中には、逆に、戦死した兵隊さんが克明につけていた日記が敵方に拾われて、情報漏洩につながるといったこともあったらしい。ただし、日本語は少なくとも3種類の文字がある上に、達筆であればあるほど同じ日本人でも中々読むのに苦労するようなものも少なくない。あちらの情報部は相当業を煮やしたことだろう。敗戦後日本にやってきたアメリカ軍を中心とする占領軍(進駐軍)が行った占領政策の中で、日本語の表記から漢字をなくし、ローマ字表記にしろという乱暴なことが行われそうになったという話も、なるほどとうなづけないこともない。

 人生万事塞翁が馬。国にとっても個人にとっても何が幸いするか分からない。アメリカは日本の占領行政を円滑に進めるためににわかに日本語の出来る要員を養成した。その中に、エドウィン・O・ライシャワー氏など、貴重な知日家が生まれたのだから。

 しかし、正しい理解が共感や同情を呼び起こすとは限らない。ある本に、ヒットラーとスターリンはお互いに深く相互理解に達していたからこそ、決して相容れない存在であることを確認し、戦争するしかないと思い定めたのだとある。さもありなん。この例は余りにもグロテスクであるが、現代に照らしてもこうした関係は決して珍しいことではない。アメリカとビンラディン、パレスティナとイスラエル、北朝鮮と日本、などなど。

 相互理解というものが成り立つ限界線というようなもの、それが文明圏というものなのだろう。異質の文明圏の間には齟齬が起き易い、という。基本的な考え方のレベルに差があれば当然のことだろう。心の奥底のところを明かすことそれはいかなる文明圏にあっても難しいことなのだと思う。隠そう隠そうと思うようなものは本当の意味での秘密ではなく、つかみたいつかみたいと思ってもするりと指の間から滑り落ちてしまうもの、それが本当の秘密と呼べるものなのだろう。秘すれば花、という。秘せざれば花ならず。文明の本質は薄命の彼方にあって常人の手の届かないところにあり、それでいいのだ。生命の源というものはセてオてそういうものではなかろうか。

 ところで、本人にとってはかけがえのない体験であっても、ありふれたものとして扱われることもある。どんなにありふれていようと、本人にとってはたった一度の大切なことであっても、そんなものに価値はないのだと。しかし、そうしたことの集積が、ある意味日記というもののありようではないか。当たり前のことがつづられていく。それだけで価値がある。その価値というものは、その人をかけがえのない人だと思う人がいる限り、生き続けるものなのかもしれない。その情熱がある限り、人は人として生きていくことが出来るのかもしれない。

 文意甚だ通らず。寛恕を冀う。

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