2007/03/03

西晋一郎博士の小論 「我が国体及び国民性について」より その1

我が國體及び國民性について

一、天然と人為。歴史の性質

森羅万象天地の内容を哲學的原理から演繹することの出来ぬは言ふまでもない。國土民族の性情は、理論には与へられたものであつて、理論が産出したものではないこともまた言を要せぬ。哲學と歴史は對立したもので、一から他を論出することは出来ぬ。しかし歴史事實の上について理を窮める所に哲學が起り、認め得た理によつて歴史事實を指導する所から、歴史が歴史として成立することを得る。ここに事と理、物と心とが交渉して、人間生活の人間生活たる所が発揚せられることと思ふ。すべて哲學理論は普遍の眞理を認めることを期するのであるが、普遍の眞理は懸空に求められるものではなく、必ず事實内容を通じて看守せられる。而して事實内容は必ず特殊個々のものである。固より哲學理論といふうちにも、論理と数理との如きは人心内面に於て構造せられる純理の世界であり、所謂象牙の塔の如きものであつて、道徳、政治、宗教、芸術等、歴史的事實に属するものの上に求められるのではない。かかる純理的なるものは、其自身の世界に於て発達の歴史は有つのであるが、人生の實地に於ては、或はこれを用ゐて其の利を達することはあつても、人生の目的そのものには拘らぬ性質のものである。即ち、論理、数理の如き純理は、道徳、政治、宗教、藝術等の事實的歴史の方向、目的の指導に直接関係を有たぬ。而して道徳、政治、宗教、藝術等の普遍の眞理は歴史として實現せられてをる是等文化の特殊の内容を通じて看守せられるので、普遍の眞理から歴史的内容を演繹することは出来ぬ。歴史的事實の特殊内容に普く通ずる理を看守し得るわけは、蓋し人心固有の眞理に夫の客観的事實が相応するからである。即ち国の東西、世の古今、人情風土のさまざまなるに拘らず、万人を感ぜしめ万世を動かすものの確かにあることは、人心固有の普遍の眞理であることを語つてをる。此普遍の眞理に触れぬものは眞の道徳とは言はれず、眞の政治とは言はれず、眞の宗教、眞の芸術ではない。只國土民族が特殊であるから、歴史発展の事情が別であるからといふのみで、各々その特殊の道徳、政治、宗教、藝術を道徳、政治、宗教、藝術たるに背かぬものであると主張することは出来ぬ。只自分の流儀であるから他と違つても構はぬといふのでは通らぬ。自分の流儀は自分の流儀であつても、同時にそのうちにいつもどこにも通ずる所のものを具へてをらねばならぬ。道徳の形はさまざまであるが、道徳の眞理に二つは無いのである。而してこの普遍の眞理は人心内面にこれを問うて得るのである。眞理に内外があるのではないが、吾々がいろいろに特殊である事實を看て、其中に同じものを見るのは、只心に於てである。形に現はれるものは、すべて特殊なるのが其性質である。すべて普遍的なるものは只無形なるものの外にない。特殊の形に無形の普遍が宿るとでも言ふべきである。以下論述して見ようと思う我が國體及び國民性は、道徳、政治の上に実現せられ、又宗教の意味をも寓し、又勿論藝術の上にも現はれてをるのであるが、中に就て、最も道徳の形に於て現はれてをる。或は道徳、政治、宗教が別れずに、寧ろ一体を成してをる所に、我國の特色も見られると言つてよいかと思ふ。而して言ふまでもなくすべて國體とか國民性とかいふものは歴史的事實に属するもので、哲學的原理から演繹せられるものでなく、これを論述するといふことは、一面その特殊の面目を掲げ示すと共に、他の一面そこに普遍の眞理の見らるべきものを指摘して、唯一無二なるべき道徳政治的眞理の中に我國體も存立してをることを言ふに外ならぬ。
次に一言すべきことは、さきに事と理、物と心との交渉の上に人間生活は成ると言つた通り、歴史事實は只自然のままの事實とは違ひ、人身のはたらきが事實そのものの構成に與つて居るのである。人心のはたらきといふも只知覺、観念、感情、欲望の往来の如き自然のままの心理作用を指すのではなく、外の自然的事實並びに心内自然の作用の上に就いて眞理を観て、その観た所の眞理に由つて内外の生活を形造つて行く意志の作用を指すのである。固よりこれには種々程度のあることであつて、眞理を見る知の精粗、それを実行する意志の強弱如何によつて、歴史をして眞に人間歴史tらしめる意義に相違はある。自然の原野を開拓し農耕の道を興す如きは、既に自然に人為の加つたもので、早や歴史の第一歩を踏めるものである。しかし人為は自然の上にのみ加はる外ないもので、原野には農耕を興すが、山には林業、河海の浜には漁業を興す。此所が注意を要する所であつて、自然を縦横に利用し来つた古い文化を有つ人間は、余りに人智を頼みにし、人為を肆にして、何事も自己の思ふやうになり得るかの如く考へて、超ゆべからざる自然の限界あることを忘れんとする。此超ゆべからざる自然の限界こそ同時に眞理の範囲であつて、人間自身が本と自然のものなのである。自然と人為は対しはするが、更に高く見れば、畢竟皆自然である。古来天の道と人の道とを別けて言ふは尤謂はれあることであるが、しかし人の道は天の道に由らねば、一歩も進めることは出来ぬ。人の道とか、人為とか言へば畢竟人の心から起こるはたらきであるが、人の心のはたらきそのものが元来天賦であつて、人間は一念と雖も自から創造する力を有つてをるものではない。物の眞理を見るは心のはたらきには相違ないが、眞理は天のものであつて、人の為したものでないから、見るとは言ふも、実は向ふから見えて来るのである。只自からに見えて来るのではなく、見よう見ようとするから見えて来る。その見ようとする努力は人に存すといふことが出来る。この努力も、つまりは天の外のものではないが、天のままのものではなく、天に乗じ、天と合し、天を我がものとし、自らのものを自からのものにするのが、正しく人の人たる所と思はれる。人間の自由意志の世界はここに開ける。しかもこの世界は天を超えるものではない。夫の西洋哲學者が神の摂理と人の自由との関係如何を論ずるのも此所であつて、人の意思がいかほど自由に翺翔しても、理外に逸し去ることは不可能事である。ただ眞理を見るべき明が天から人に賦せられてをり、この明を實にするか否かが人に存する。即ち人の自由にある。此明と、此明を實にすべき自由とが人に許されてをる所に、人が天に迫り、天と一となり、天人合一の世界を成形する。此世界が即ち人間歴史に外ならぬ。古来人を天地に参せしめて天地人の三才などと言つたのは此意味と思はれる。尚ほ今少しく説明して見れば、天とは普遍の眞理のことである。眞理と言へば固より今更のものではない、人の作れるものでもない、これを知ると知らざるとを問はず存するものであつて、超時間である。此永遠である眞理を實にするものが人間である、精しく言へば人間意志である。實にするとは時間的のものにすることである、即ち現實とは現前であり、現在である。現在といふものが時間の真髄である、時間そのものである。意志は永遠の眞理を現実にするもの、即ち時間界のものとする原理である。自由といふことは眞理界、永遠界に於て言ふべきものでなく、永遠と時間、眞理と現實との間に於て言ふいべきものである。しかし永遠と時間との間といふことは其実不可思議である。これ自由の不可思議なる所以である。天人合一は吾々にはあくまで密意である。然るに時間の原理たる此自由意志はただ意志ではなく、固より内容を有つものである。此内容は即ち知が表現するのである。故に知を離れて意志は実際には無い。即ち意志するとは、実際には見ること知ることである。此所に内容と作用とが一つになつて居る。人間の自由は知を起す所に起る。見ることは自然の業ではない、人間自由の業である。見えるものはいつも眞理であつて、見るものは、これを實にするものである。故に知は其内容から暫く離れて見れば、既に意志そのものなのである。天人合一は早や此所に実にせられる。而して此合一に於て天が多く作用いて人の作用が少ないときは、殆んど自然に近いものであり、人の知と意志とが顕著に作用くときは天人合一の意味が濃厚となる。十全な意味に於て、天人合一といふは人間の自覺的行為に外ならぬ此所に始めて心理現象と区別せられる精神の確立を見るのである。即ち精神はただ在るものではなくただ生起するものではなく、自から立てるもの、自から成るものである。かかる精神の自立の上に始めて人間歴史が開かれるのである。即ちまた眞實の人間はただ歴史として成るものである。眞は天であり、實は人のみが實にする。眞と實との合一が天人合一、即ち眞に人間といふべきもの、即ち歴史のことである。
 国土種族は天である、即ち自然である。此國土に生まれ、此種族の中に生れるは故に吾々の天賦である。天は逃れることの出来ぬ所であつて、人間の自由はただ此天賦の上に自己の生活内容を實現するのである。何人か現實的に自己の天賦を超越するものがあらう。ただ人間思想の抽象性がかかる超越を空想せしめる餘地を許容するのみである。或は國土を去つて他に移ることが出来るから、それほどの超越は出来ると考へられもしようが、それは只禽獣が飛来して居を移すと同前の自然的動作に過ぎない。即ち人間は、國土種族といふ天賦の裡に生まれ出づると共に、其の國土種族の成れる天人合一の歴史の裡に生まれ出づるのであつて、自然人、野蛮人でない限り此歴史を免れることは出来ぬ。勿論思想の可能界に於ては、かかる脱出を考へることも出来るがこれはただ空想である。又事實として、祖國祖先の歴史を去つて他國に生を送るものもあらうがこれは世界浮浪人であつて、しかも其漂浪中彼を教養した祖國の歴史的特性を全脱することは恐らく出来ぬであらう。若し全脱し得たとしても、その新に到れる國の歴史的文化の特色を取得するのでなければ、何等文化無き自然人に堕在する外はあるまい、特殊ならざる歴史と文化とは何處にも無いから。若しその新に到れる國の歴史と文化とを修得したとしても、それは暫くの鍍金たるに過ぎはせぬであらうか。蓋し眞理は普遍であつても、それの實在は天賦の特殊性の裡にのみ見られるので、天賦自然を抜きにして普遍の眞理そのままの發現といふ如きは、事として不可能であり、理として思惟不可能である。人の心の超越性はあらゆる特殊内容を超出するとしても、一度内容を得来るときは必然的に特殊的となり、しかもその特殊性は其人の天賦自然に内在する特殊性でなければならぬ。換言すれば、其國の歴史的文化の存續に接するのでなければ、人は其生を全くすることは出来ぬ。さもなければ、徒らに他を模倣するか、若しくは何等の充實せる特色を有たざる稀薄なる生活、又は人生の何かの方面に偏せる生活を送る外はあるまい。人生の内容は眞理として豊富無量であるべきで、種々の文化に接する毎に何か新なるものを自己に實現することは文化流布弘通の賜であると思ふが、さりとて個人として民族として獨自の個性を有たぬものを考へることは出来ぬ。大自然に歸るとか、天眞を全くするとかいふことは、畢竟自己の屬する歴史を通じて普遍の眞理を實現することではなからうか。萬世の師表となれる宗教徳教の開祖聖賢もまた、只その屬する所の歴史の特殊性の形に於て普遍の道を開示したことは、事實の示す所である世に世界普遍の哲學は無く、必ず特殊の形相を有つのであるが、しかし哲學は普遍の眞理を窮めんとするものであるから、動もすれば歴史の具體性を看過せんとする。歴史の事實に沒頭するものは之に反して生活の特殊形相に拘泥して、人類普遍の道の到る所に遍満流通することを見逃す恐が常にある。東西國を異にしたままで互に相感動するものがあり、古今時を隔てて互に知己となることを得るは、畢竟歴史は天人の合一であつて、人の殊なるものを通じて天の普なるものが流れるからであると思ふ。古語に、人能く道を弘む、道より人を弘むるにあらずとあるは、即ち歴史の成立のことである。誠は天の道、之を誠にするは人の道とあるは即ち教の立つ所である。歴史を離れて教無く、教無くして歴史といふほどのものは成立せぬ。教とは自覺を意味し、歴史とは精神の内容である。嬰児の如くあれよとか、大人は赤子の心を失はずとか言ふは、天の眞を人の實にしたもので、即ち自覺であり、精神であり、而して始めて教が立つ。
 民族の特殊の群居は國體の自然であり、民族の生質は國民性の天人合一である。國體は其歴史の骨髄であり、國民性は其歴史の血肉である。此國體があつて此國民性を維持し、此國民性があつて此國體を養ふのである。國體は國家組織の基礎的形相であつて、政教の統一的原理となる政教とは政治道徳の渾一體のことであつて、その分かれずによく渾一なる所が既に廣く東洋的、特に我國的の特色を示してをる。國民性は宗教、學問、藝術等、一切文化の諸方面に見られる國民性情の發現である。以下我が國體について所見の概要と、國民性の趣を宗教、道徳の方面に於て二三述べて見ようと思ふ。

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