2006/08/18

残櫻記(31)

                                  又東寺古文書の中、寛正二辛巳年廿一口方評定引付帳、二月十八日の記に、畠山右衛門御対治事に就き、公方様自り、御内書於高野成被れる之由、仍て寺務の為寺家に伝達せ被れ、当寺より高野山に付く可き之由、綸旨成下被れる之條、度々仰遣ると雖も、今于延引有に依て、近日南方同意の企てに及ぶ之處、当山族少々与力を令す之旨其聞有、頗る緩怠之至天譴遁る可からず、所詮出現形之輩者厳制を加え、忠節致す□者恩賞行わせ被る可き也、正月廿三日、御判、金剛峯寺衆徒中」、と見えたり、又高野山金剛峯寺に藏もてる書に、源義就没落を令すに依て、南方蜂起云々、時日を移ず追討せ被る可く、早く左衛門督政長朝臣手に屬す、軍忠抽んじ神妙に為す可く、若し敵同心之輩に於ては、厳科に處せ被る可き者、綸命此の如く悉く之、以て状す、」九月廿八日」、右大辨、金剛峯寺衆徒中」、とみえたるも其時のなるべし、其後文正元年におよびて、山名宗全が申請によりて、義就赦免を得て、熊野北山より出て上洛せる由、応仁記にみえたり、

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2006/08/15

残櫻記(30)

すなはち、間島衣笠等供奉り、醍醐三寶院の天神堂に置奉りて、同卅日都に参上り、此由三條内府、また武家へも申しければ、やがて奏聞あり、天皇(みかど)叡感かぎり坐しまさず、即日神爾内裏に(此とき内裏土御門に在り、上に注へるかごとく、嘉吉三年炎上の後、すでに新造ありき、)帰入らせたまひぬ、明徳に神器御帰座の例に准へ給ひて、神爾御帰座の儀式をなむめでたく遂行はれにける、あなかしこあなたふと、これ後花園院天皇の大御世(足利義教公執政の時)の事になむありける、

 注・此後もなほ南方の残党事を謀りし事ありときこえたり、其はまづ天地根元歴代圖に、寛正元年二月大地震、国々兵革多、旱魃大風洪水、五穀不熟、大飢饉、人民六畜多餓死、時将軍義政吾が栄耀に任じ、人民之餓死したるを知らず、自ら重職に耽り、天下之飢饉を知らず、朝暮造殿厳宮を営み、花を裁り、草を植ゑ、南殿に山水を作る、所々自り盤石を集め、徒に国民の力量を費す、帝此事を聞き、一首の詩を以て義政を諌めて云ふ、「残民争採首陽薇、處々閉廬鎖竹扉、詩興吟酸春二月、満城紅緑為孰(誰:自注)肥」、義政此御句を頂戴して即ち普請を止む、とみえたり、帝は後花園院天皇の御事なり、件の御製の起句に依りて、そのかみ南方の残党のありさま、年ころの志の趣さへによく推察らるるなり、

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2006/08/06

残櫻記(29)

 注・尊雅王の薨じ給へる事、神爾を守返し奉れる時の事、諸書に記せる趣混雑しきを、上月記には何の宮と云ふ事を記さず、南方紀傳、南朝紹運圖に記せる趣実に符かなへり、さてその楠氏系圖正理の記に、此時南帝後醍醐帝四代孫としも云へるは、いづれの王としても世数合ひがたし、楠氏の子孫此系譜記せる頃の謬傳なるべし、また、其譜によりてしひて考れば、後醍醐天皇の皇子後村上天皇より数よみ始て、尊義王、尊秀王、尊雅王の三代におよぼして四代孫といへるにてもあるべし、然らば古書の世系に、祖とせる人の名を挙げて、其人の子より世数をかぞへて、若干世孫とも書る例のごとく、後醍醐天皇を御祖として、御世数をば後村上天皇より計へたりとすべく、又後亀山天皇は、北朝と御和合體にて、吉野を出て遷幸し給へるによりて、南方紀傳に、尊雅王の御事を、後醍醐帝より五代にて亡び給ふと云へるは、後醍醐天皇より始奉りて、南朝の三御代に尊義王を加へ、及また尊秀王、尊雅王、御兄弟をば連ねて、一代のごとくに申せるなり、此王たちの世数などは、いとよのつねならぬうへの事なれば、そのかみをおもひやりて、心しらびして考へたるなり、しかるに大日本史に、件の楠氏系圖を引て、一宮自天王と申せるは、尊雅王の御事ならむと記されたるは、校者の訂しあへざりしなるべし、又彼系譜の文かきざまを按るに、正理も尊雅王に仕奉れりし事著く、また尊雅王を南帝と称(い)ひ、また十津川皇居といひ、また崩など皇僭(きみころひ)て書し、又赤松某反云々など書したる、其氏人の筆のあとに、猶たゆみなき志のにほひ遺(のこ)りて、いとあはれにきこゆかし、

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2006/08/05

残櫻記(28)

ここに小寺性説は越智の雑掌として、大和の国内に在りけるが、国人越智某、小河中務少輔と議りて、間島衣笠等と共に、其宮の御在所を襲ひければ、其處を遁れ給ひて、また十津川に遷り給ふ、小寺等追続きてはげしく攻めけるに、八月廿七日の夜、つひに其處をうち破られ、尊雅王痛手を負ひて、吉野の北山なる、高野上の高福寺に遁れ坐ましけるが、御創の惱重りて、遂に其處にて薨じ給ひぬ、高福院と諡たてまつりけるとぞ、(此寺のわたりに、葬め奉れるなるべし、)さて又神爾は、もとより御事なく坐ましけるを、此時小寺藤兵衛入道性説等が手に守もり返し奉りぬ、

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2006/04/23

残櫻記(27)

〇其後南方宮方の者ども、猶も思ひよわる事なく、楠正理等尊義王の第三の御子、尊雅(たかまさ)王を取立奉り、神爾を上りて、潜に大和の十津川におはしまさせ、明る長禄二(戊寅)年六月、また吉野の山奥に御在所を搆へて遷(うつ)し坐(ま)せまゐらせけり、

 注・按に、事企てたまへる尊義王、又その第一の御子の尊秀王と称せる御名の尊字は、御祖後醍醐天皇の御名尊治と称したてまつれるを、受けたまへる御意なるべし、第二の御子忠義王は、尊字を憚りて、御遅々尊義王の義字を襲つき用ひ給ひけむ、しかるを第三の御子とまして、尊雅としも称し給へるは、尊秀うしなはれ給ひて後、其御志を継玉ひ、神爾を擁たもちたまへるによりて、しか尊字を御名みな に付け給へるなるべし、

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2006/04/22

残櫻記(26)

 注・この二碑の事を、大日本史には、古牌有り記して曰く、一宮云々、二宮云々と記されたり、〇巡狩録附録に、吉野の事書たるものに、今吉野に七保九箇村と云ふ處あり、其は東川村、西河村、大瀧村、寺尾村、入谷村、迫村、高原村、人知村、白屋村を云へり、此村々に寶物として、守護するものあり、宮の御兜赤銅金の筋あり、金の鍬形、金の龍頭、正平革の吹返なり、御位牌二つあり、一つは南朝一宮自天禅定法皇、一つは南帝王二宮忠義禅定法皇と誌せり、又長禄元年御事ありし時宮の御頭、並に御鎧を取返しけるものの子孫ありて、筋目の者と云へり、毎年二月五日祭礼ありて、九箇村かはるがはるこれを行ふ、筋目の者其行事をつとむる例なり、又六保九箇村とてあり、中奥村、和田村、神野谷村、柏木村、上多古村、上谷村、大迫村、伯母谷おばがたに村、今波村といふ、此村々に宮の御鎧、御太刀、御長刀の類を寶物として傳へ藏もてり、これも毎年二月五日祭礼あり、其式七保と同じ、又四保五箇村と云ふは、井戸村、武木村、碇村、下多古村、白渡村なり、此村々にしては、宮の御鎧の両袖を寶物とす、祭日祭式等すべて右に云へる村々と相同じ、さて其村々の山中に、宮の御自害の舊蹟とて、彼此に在りと見えたる由記されたり、按ふにその筋目の者と云へるは、井口太郎左衛門が裔すゑなるべし、さて件の廿三村の山里人、今の世までも、彼宮々をさばかり尊び慕ひて、祭り奉れる真心の厚き事、いとあはれなることにこそ、

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残櫻記(25)

              かくて明る長禄元(丁丑)年十二月山中雪深かりければ、宮方のおこたりをうかがひて、夜懸にせむと云ひ合せて、同二日の夜一揆の者ども二手に分れて、密に両宮の御在所へ打向ふ、まづ一手は大河内の御在所へ子の刻ばかりに行着て、密に御殿に忍び入て、丹生屋兄弟して尊秀王を害し奉り、中村弾正忠御頭を賜りぬ、(或は中村太郎四郎とも云り、)やがて神爾を取奉りて引退くところを、此宮の伺候人を始め、吉野十八郷の者ども起立て追懸けり、寄手雪になづみて引かねけるを、伯母谷をばたにと云ふ處に追ひつめて、丹生屋兄弟、中村弾正忠、同太郎四郎等を討ころす、此時宮の伺候人、井口太郎左衛門と云ふ者、心はやく計らひて、再神爾を奪り返し奉りぬ、尊秀王の御頭をば雪に埋みて隠したりけるが、血に染みてしるかりけるを見つけて、これも又取返してけり、また河野谷へ向ひたる一手も、同じく夜半ばかりに御在所に忍入て、間島彦太郎忠義王を捕へ奉り、上月左近将監御頭を賜はりて引退く、此時その宮方の者ども出合て、寄手八人討とりく、上月は遁げ退きけり、宮方には伺候人宇野大和守、高野山の智荘嚴院の弟子僧定順、また次郎太郎と云ふ者合せて四人討死せり、(以上上月記、赤松記、応仁別記、南方紀傳等参考、但し南方紀傳には、此時の御事に、明年の尊雅王の御事を、同じ度のこととして記したるはあやまりなり、)今吉野の山中高原村高峯山福源寺に古碑二つありて、一つには一宮自天親王、一つには二宮忠義大禅定門と誌したるが在とぞ、両宮の御墓所にぞあるべき、

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2006/04/17

残櫻記(24)

此ともがら心を合せ、まづ大和の宇智郡に入て、密に吉野の御ありさまをぞ窺ひける、其中に小寺性説は、同国越智の雑掌と定めて行向ひけり、さて其外に、依藤弥三郎は、播磨の三草山に出張し、堀兵庫助、明石修理亮二人は、京の雑掌として残り留りにけり、かくて便宜を窺けるに、中村宗道、兵庫助(此二人、必上に記せる一揆着到の人々の中なるべけれど、何れ其ならむ、詳ならず、)心変じけるによりて、便を失へる事ありて、日数経るほどに、小谷與次姿をかへて忠阿弥と名のりて、とかくして大河内谷両宮の御在所に参りて、間島彦太郎が事を、さきに将軍義教公を弑したる罪によりて誅れたりし、赤松満祐が弟左馬助教祐が子なりと偽り、其ほか赤松が一族亡臣どもの、武家のおぼえよろしからざる輩の附随たりとて、ひたすら両宮への奉公を請望申けり、始のほどはかつて御許容なかりけるが、別心なきよし、さまざまに欺きこしらへて、数度懇に請ひ申しければ、さてはもとより、武家の悪しみ深き、赤松が方ざまの者どもなれば、実に奉公を望めるも其ことわりありとて、漸御許容の御けしき賜はりけり、されども大勢一同に参りては、尚御隔心あらむ事を憚りて、間島彦太郎、上月左近将監、中村弾正忠、同次郎、上野小次郎、平瀬彦左衛門尉、同小太郎、小谷與次等引分れて、両宮の御在所に伺候し、其餘の者どもは、山中所々に打散しのび居て、なほも時をぞ待うかがひける、

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2006/04/16

残櫻記(23)

〇さきに誅(うたれ)し赤松満祐が一族家人等の残党相議りて、此たび南方の宮々を討まゐらせ、いかにもして神爾を取返して奉りなば、それを功に嘉吉の罪を贖(あがな)ひ、満祐が弟、伊豫守義雅が子の性存入道が一子に、一松丸(また二郎法師)とて三歳になれるがあるを取立て、再赤松の家を興し、所領をも賜はらばやと云合せけり、さる中にも中村弾正忠貞友、石見太郎左衛門尉と云ふものなむ、もはら此子とをはからひける、さるは此事は、既に公家武家より内々仰下されける旨のありけるとき、命だに捨むとせば宮々をば討まゐらせてむ、神爾を御恙なく取返し奉らむ事のおぼつかなければ其恐ありとて、辞し申たりしかど、今度さらにいひあはせて謀を定め、かつは所願の旨を述て、御許しを蒙らむとて、かくは云合せたるなりけり、かくて石見太郎左衛門尉便を求て、三條内大臣藤原実量公の御内人になりて、こころばせをみえて仕へけるが、奉公のあひだ時おりを伺ひ、所願の趣よりより愁訴申しければ、内府然るべくおぼして、まづ密奏を経て後、武家に(将軍足利義成卿、後に義政と改め給ふ、)示し合せらる、武家よりも又内奏の旨ありけるを、ともに聞食入れたまひて、此度赤松が一族神爾の御事につきて、殊さら忠節を盡し、其功を遂るに於ては、かれが一族並に家人等に至まで、嘉吉の罪悪をば免れさせ給ひ、其うへに赤松が家再興ありて、富樫次郎成春が関所、加賀国河北石河両郡に、備前国新田庄、出雲国宇賀庄、伊勢国高宮保等をも、恩賞として賜ふべきよし、内々綸旨を下されけり、武家よりも又内書と云ふものを添て賜ひければ、赤松が黨類大に歓び、ますます志をはげまし謀を定めて、康正二(丙午)年十二月廿日、一揆の着到を記して、大和路をさしてうちたちけり、其人々には、赤松が一族間島彦太郎を始として、上月左近将監満吉、中村弾正忠貞友、同次郎、同五郎、同安禅房、衣笠某、丹生屋帯刀左衛門尉、弟同四郎左衛門尉、浦上右京亮、小河兵庫助、同七郎、石地兵庫助、同四郎、河高治部少輔、同又三郎、河勾五郎、村上源三郎、垂井次郎右衛門尉、木梨三郎、阿閉弥太郎、同太郎次郎、魚住主計助、同彦四郎、小寺藤兵衛入道性説、鳥居千代松丸が代上野小次郎、並に間島が被官平瀬彦左衛門尉、同小太郎、中村太郎四郎、中村弾正忠が被官小谷興次等なり、

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2006/04/15

残櫻記(22)

                             当時那智わたりに、心よせ奉れるものの在けるによりて、殊さらに此神に御立願ありて、かつは御方人の心をも励ましめ給へるなるべし、前に文安元年義有王牟婁の北山に坐して御企ありける事を、熊野本宮の者どもより、武家へ注進したりけるに、新宮那智のともがらは、其事無かりつるをもて疑ひたる事、上に記せるがごとし、おもひ合すべし、また上に挙たる色河氏の藏傳たる尊秀王の令書のほかに、色河兵衛尉盛氏、一族相催し紀州に発向し、軍忠致す可く候也、天気如此委之、十二月廿四日、左中将(花押)」、とある文書をも持りとぞ、これもかの乙亥年に、再下されたる令書ならむかともおもはるれど、そのかみ南方宮方に、官かけたる人々はきこえざれば、此は正しき前皇の御時のなるべし、又其ほかに建武延元興国の年の文書あり、其寫をよみ見るに、色河の一族等はやくより、南朝に忠心に仕奉りたりし趣にきこえたるが、御合體の後も、なほその宮方に心よせ奉りたりとぞきこえたる、

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