2011/06/22

昭和天皇御製に仰ぐ慰霊のあり方

    昭和37年 「遺族のうへを思ひて」

 国のためたふれし人の魂をしも つねなぐさめよあかるく生きて

 東北地方太平洋沖地震により発生した東北関東大震災、地震、津波、原発事故という3重苦の中、2万7千人を超える死者・行方不明者を出し、数10万名もの被災者・避難者を出しているこの国難の中にあって、これからの日本をどのようにして再建していくべきか。


 そう、再建。


 未曾有の敗戦からも立ち上がった日本。


 昭和に学ぶ事は多い。


 昭和天皇の御製は、生きる姿勢について述べられている。


 明るく生きることが慰霊になる。このことは本当に心に染みる。


 ありがたいと思う。


 むしろ被災地から遠い、西日本にいて観念的には苦悩し、現実では相変わらずの世の中にいる。


 心の在り方が問われているのだと、思う。


 日本の再建は、明るい心から。それは、かつて、天の岩戸の前でアメノウズメの命が踊りまくって八百万の神々がみな笑い転げたところから、アマテラス大神が、岩戸から出御遊ばされた、その故事に通じる。


 明るい言葉で、明るい心で、明るい時代を作っていくこと。

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2010/12/05

「言霊の幸はふ國」    小林秀雄

小林秀雄 「白鳥・宣長・言葉」所収 「言葉の力」より

 萬葉の詩人は日本を、「言霊の幸はふ國」と歌つたが、わが國に限らず、どこの國の古代人も、言葉には、不思議な力が宿つてゐることを信じてゐた。現代人は、これを過去の迷信と笑ふことはできない。何故かといふと、この古い信仰は、私達の、言葉に對する極めて自然な態度を語つてゐるからだ。古代人は、言葉といふ事物や観念の記號を信じたのではない。言葉といふ人を動かす不思議な力を信じたのである。物を動かすのには、道具が有效であることを知つたやうに、人を動かすのに、驚くほどの效果を現す言葉といふ道具の力を、率直に認め、これを言霊と呼んだのである。なるほど、呪文によつて自然を動かさうとしたのは愚かであつたらうが、言葉の力は、自然に對する人間の態度を變へることは出來る、態度が變れば、自然が變つたのと同じ效果が上る、さういふことを知らなかつたほど愚かではなかつたのである。彼等にとつて言葉とは、現實の對象や實際の行為に、有效に働く、さういふ一種の機能を持つ力であつた。今日も、詩人はこの古い信仰を傳承してゐる。


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僕が、小林秀雄氏の文章にはじめて触れたのは高校の教科書であつた。平家物語を題材としたその文章は、授業で取り上げられることはなかつたが、退屈な凡百の文章の中にあつて、あまりにも鮮やかに僕の心にしみ込んできた。

最初に読んだ本は「本居宣長・補記」であつた。

なぜ、それを選んだかについては、山本七平氏が書いた追悼文に、「補記」の方が本音がズバリ書いてある、といふ意味のことを書いていたからである。

その次に読んだのがこの「白鳥・宣長・言葉」であつた。

小林秀雄遺稿集といふ帯を見て、まだ真新しい本を買つたのである。


「言葉の力」といふ短い文章ではあるが、言葉に対する極めて率直な小林秀雄氏の思ひがつづられてゐる。

こうした文章の前では沈黙して味はふしか他にすることがなくなる。


良き言葉を使うことが大切だなどと、こちたき議論などしなくても、この一文をじっくりと味はへば、自ずから、良き言葉を使ふやうになるだらう。それくらいに高級な魂の持主であつても、別に罰は当たらないと思ふのだ。

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2010/08/31

「国民の遺書」に先行する、「父上さま母上さま~桜を恋うる英霊の声~」

 小林よしのり編「国民の遺書」が反響を呼んでいるという。


 喜ばしいことだと思う。氏ならではの一定の広がりにより、より多くの人々に「靖国の言乃葉」が広がっていくことは何よりのことだ。


 「英霊の言乃葉」


 靖国神社の御社頭に掲示されている、大東亜戦争をはじめとする日本の近代の歴史の中で、国を守るために、公に殉じて逝った英霊の方々の遺書をまとめた冊子である。


 僕の手元には、1~9までがあるが、今はも少しまとめられているかもしれない。


 最初の一冊を手に取った時の感激は古びていない。

 昭和63年7月15日初版の「父上さま母上さま」という本がある。


 これは、まさに「国民の遺書」に先行する本である。平成7年7月1日第17版が手元にあるので、おそらくは更に版を重ねているはずだ。

 神社新報社という、神社界の出版社から出されていることもあり、一般には広がりにくかったのかもしれないが、それでも売れ続けているわけだ。平成3年の改版の言葉の中に、10万人の人々に読まれている、とあるので、その時点で10万部は頒布されているということである。


 編集者の名前は書かれていないが、自分の記憶に誤りがなければ、これは、南雅也先生のお仕事だったと思う。


 満州の麻刀石の闘いで、正に鬼神も哭かしめた壮烈な戦いを行った学徒兵の生き残りの方である。


 靖国神社において毎年10月21日、学徒出陣の日を期して学生の手で行われている、「戦歿全学徒慰霊祭」が、靖国神社で斎行ことが出来るようになったきっかけが、南雅也先生のおかげだったと記憶している。


 「父上さま母上さま ~桜を恋うる英霊の声~」

この書のことも是非忘れないで、頂きたいものと思う。
 


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2010/02/14

しきしまの道について  ~日本人の心の鍛え方~

○はじめに

  ~日本人と「しきしまの道」~

○言霊は生きている

  ~万葉集「好去好来の歌」(山上憶良)から~

○日本における「歌」の発生について

  ~古今集仮名序の「和歌論」~
   八雲の道、言の葉の道、

○歴代天皇に見る「しきしまの道」のご自覚

 ~千載和歌集序に初出の「しきしまの道」の語~

○「言葉」と「心」と「事」の相関について

  ~本居宣長の「古事記傳」に見る言語観~

○「言葉の乱れ」は「心の乱れ」

  ~「神皇正統記」の世界観

○しきしまの道の可能性

~仏語で出版された皇后陛下御歌集「瀬音」の反響~


○しきしまの道の実践

  ~「明治天皇御製」に学ぶ~

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ある勉強会で発表した際のレジュメをアップしてみました。

「しきしまの道」という言葉は、もはや耳にする機会も遠のき、古典の中に埋もれてしまった言葉かもしれません。

しかし、日本人が国語を忘れない限り、その命脈後途絶えることはありません。

かつて、呉善花さんが、日本語を学んでいくと心の持ち方に変化が生じる、他の言葉を学んでもそのようなことはない、と書かれていたことがあります。

一般論に押し広げることが出来るかどうか今俄かに即断することは出来ませんが、元来言語には、その言語特有の魂が宿っているのではないかとは思うのです。他の言語に比べて日本語が特にそのような特性に恵まれているのかどうかということを考えるのは、大変興味深い事柄ではあります。


「これのみは よその国より 伝はらで 神代ながらの 敷島の道」

敷島の道とは、言葉の道であり、日本語の発生そのものを指している言葉と言ってよいと思います。

本居宣長の言語観によれば、言葉と心と事とは密接不可分な関係にあるとされますが、これは決して奇矯の説でなく、ごく当たり前の認識であると考えられます。

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2009/08/18

山田方谷   誠に生きた幕末の巨人  その1

 長い間、その名を知るのみで、いかなる人物か知らなかった山田方谷について学ぶ機会を得た。

 幕末維新の動乱期を、73年の生涯を駆け抜けた偉人だということが分かった。

 文化2年(1805年)に生まれ、明治10年(1877年)に没した。

 陽明学の系譜にある方としては、珍しいといっては何だが、非業の最期を遂げたわけではない。

 しかし、藩主・板倉勝静公が幕閣となり、老中に任じられ、藩主の顧問として幕政に参画したことにより、鳥羽伏見の戦い以後の戊辰戦争では、幕府方として、備中松山城を、征討軍に開城する憂き目に逢うが、無事になし終えた。また、藩主勝静公を救い出すことにも成功するのである。

 備中松山藩は有名な貧乏藩で、10万両(今でいえば約650億円)の借金を抱え、利子の返済もままならない状況にあった。

 その立て直しを7年で行い、逆に10万両の余剰金を生み出した山田方谷の手腕は全国に鳴り響き、このとき、越後の河井継之助が、藩政改革を学ぶために訪れている。

 
 この財政再建の方策は、今こそ政治家たちがこぞって学ばなければならないと思うのだが、いかがなものだろうか。

 具体的なポイントとしては以下の6つとなる。

 1、人心を正す

 2、風俗を敦くする

 3、役人の汚職をなくす

 4、人民が倒れ死ぬ原因を調査する

 5、文教を振興する

 6、軍備を拡張する

 今の日本政府に、このうちの一つでも成し遂げることができるだろうか。


 今回学ぶ中で、「至誠惻怛」(しせいそくだつ)という言葉が心に残った。

 「誠を尽くして人を思いやる心」、という意味だそうだ。

 
 

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2008/06/12

素晴らしきかな、江戸の先人 ~貝原益軒 「大和俗訓」を読む~

 貝原益軒の「大和俗訓」が岩波文庫から出ている。

 ずっと以前に入手していたが、中々読めないでいた。

 ふと、手に取り、読み出してみたら、面白い。

 吉田松陰の「講孟余話」に通じる内容が、更に分かりやすい文章で書かれている。

 
 「学問の道は心をむなしくし、へりくだり、よくしれることをもしらざるが如くにし、能く行ふことをも行はざるが如くにし、我が才と行とにほこらず、わが智を先だてずして、人に問ひ、人のいさめを聞き用ひ、我が過を改めて善にうつるべし。かくのごとくすれば、学問の益あり。善にすすむこときはまりなし。もし自らほこり、我を是とし、人を非とし、人の諌をふせぎ、我が過をきく事をきらはば、才学に長ずるにしたがひて、その心あしくなりて、学問の益なきのみにあらず、かへりて害となるべし。是れ己が為にせずして人のためにする故、君子儒とならずして、小人儒となるなり。かくのごとくならんは、学ばざるにおとれり。」

 それほど難しい文章ではないと思うが、以下、自分なりに現代語にしてみる。意味毎に原文にはないが段落をつけてみた。

「学問の道は、心をむなしくして、へりくだり、自分がよく知っていると思っていることも、よく知らないようにして、また、自分がよく行っていると思っていることも、よく行っていないようにして、自分の才能や自分の行いを誇らずに、自分の知識を先立てるのではなく、人に教えを乞い、人が諌めてくれる言葉を聞いてそれを用い、自分の過ちを改めて善に移っていくべきである。このようにすれば、学問をして益があるだろう。善に向かって進んでいくことはこれでよいということはない。

 もし、自分に慢心して誇り、自分こそが正しく、他人は間違っているとして、人が諌めてくれる言葉にも耳を塞ぎ、自分が間違っていると聞くことを嫌がっていたならば、勉強を積み重ねていけばいくほど、その心根は益々悪くなってゆくであろう。それでは学問をする益がないばかりか、却って害となるのである。

 このようになるつてしまうのは、自分の身を正し自分の身を善に移すために学問をするのではなく、他人を批判し評価して裁くために学問をするからであって、君子の学問ではなく、小人の学問となってしまうのである。

 このような学問ならば、学ばないでいるよりも人間として劣るだけであり、しないほうがましというものだ。」

 一読して、冷や汗が出る。

 果たして、今は、この小人儒全盛の時代である。

 かくいう自分も、他人を責めることには急で、自分を責めることには緩やかだ。

 学問は、自分の姿で伝わらなければ、本物ではない、といふことである。



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2007/08/09

山岡荘八歴史文庫から「徳川慶喜」を読みつつ

 山岡荘八さんといえば、「徳川家康」をはじめとして歴史小説で押しも押されもせぬ作品を残した作家として知られている。

 吉川英治氏はより大衆的な作風を感じるが、山岡氏はより重厚というかより前面に理想なり理念が出ているということが出来るかもしれない。

 学生になって先ず先輩から読めといわれたのが「吉田松陰」だった。その後何度か読み返し、「吉田松陰全集」などもかじり読みした後で見ると、山岡氏が如何に松陰の残した言葉を丹念に辿り、その真精神を引き出そうとしているかが分かった。

 これに比べると司馬遼太郎の「世に棲む日々」は、浅薄というか興味本位というか、内面に入っていこうとしていないことがよくわかる。むしろ外側からじろじろ眺めては、今の自分の立ち位置から批評するといった感じなのである。

 山岡氏の記述に現代が出て来ない、というのではない。しかしその向きが逆なのである。決して過去を一段高いところから見るというような「進歩的」な態度は一切ないのである。こらえきれないという感じで「現代」に通じるところに筆が及ぶ、といった感じなのである。面白いことに、その部分だけが古びて見えるのだ。

 歴史は、時空の風雪に耐えて伝えられてゆく。多くの人々の手を経て、様々に受けとられながらも、元の形を厳として曲げないのである。変わっていくのは、受け取り手の勝手な思いに過ぎない。稀に、歴史に対峙して火花を散らすものがあり、新しく歴史となっていくのである。しかし、歴史そのものを軽蔑したものは、歴史から見放されるのではないだろうか。

 「徳川慶喜」は歴史文庫で1~6巻までだが、今ようやく6巻を読み始めたところだ。

 幕末の歴史を主導したものが、薩摩、長州であることは論を待たないが、勤皇の精神の源流に位置する水戸に中々思いが及ばないのである。それは維新後に勢力として全く壊滅してしまっていたことにもよるかもしれないが、むしろ慶喜に結晶して、大政奉還をなさしめ、かつ日本を独立国家として保全して、新しい政権に渡すために陽の目を見ない献身をなしたものなのかも知れない、と思いはじめた。

 先頃、マツノ書店が「復古記」を復刊したが、戊辰戦役という未曾有の大転換期を克明に記録した空前の歴史書である。是非とも入手したいと思っている。

 日本人は、もっと日本の歴史を知らなければいけない。それは表層の上っ面ではなく、深い源泉を知らなければならない。

 現代日本の原点、それはやはり御一新であり、幕末維新史の光と影をしっかり学ぶことが、現代の日本人として最低限必要な教養であろうかと思われる。最低限であるから、義務教育の中で教えられるようにしなければならないだろう。

 もちろん、もう一つ、大東亜戦争にいたる昭和の歴史についても同様である。山岡荘八歴史文庫には「太平洋戦争」という作品も収められている。これも読まれるべきものである。

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2006/04/14

佐久良東雄の歌 その1

 幕末の志士の中で、最も優れた和歌を残した人物を挙げた場合、必ず3本の指に入るのが、佐久良東雄である。

 その名の通り、沢山の桜の歌を残しているが、決して物見遊山の歌ではない。烈々たる志の迸る歌ばかりなのである。

 人丸や赤人の如いはるとも詠歌者(うたよみ)の名はとらじとぞおもふ

 専門歌人はだしの東雄ではあるが、人丸や赤人の如き忠臣のように言われるのならばともかく、歌詠み人などと言われたくはない、と真情を吐露している。技巧に走り、ふやけきったことばのもてあそびなどとは無縁の人であったことを思わなければならない。

   朝夕祈祷の歌

 さくら花咲き咲きわびて青柳のまゆのひらけし春にあはばや

 青柳のまゆのひらけし、とは、上御一人の愁眉を開かれる、ということである。その日がくるのを待ちわびると、桜の花に祈りを込めているのである。

 大君の御言おもへばさくらばな踏散らさまくおもほゆわれは

 大君の御憂念がこめられたお言葉を思うと、のんびりと桜の花を見ている場合ではない、と桜の花を踏み散らかしてしまいたくなる、というのだ。しかしまた、

   禁中花
 嵐山芳野の花はいかにぞとみはしのさくらみそなはすらむ

 京の都の嵐山や、南朝縁の芳野の山の桜はどのように咲いていることだろうか、御所に咲く階の桜を、大君は如何なる思いでご覧になっておられることだろうか、と、大御心をはるかに思う東雄であった。

 朝日影豊栄のぼる御宇(みよ)になりてさくらの花をさかせてしがな

 王政復古、すめらみことのみいつの輝く時代を招来させたい、との熱い思いがこみ上げてくるのである。

 ことわざに花は三吉野人は武士はなにはぢざる心もたなむ

 ことわざに「花は桜木、人は武士」と言うが、花に恥じない心を持ちたいものだ。この思いは、

   花の嵐に散るを見て
 事しあらばわが大君の大御為人もかくこそちるべかりけれ

 との思いに直結していくのである。

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幕末志士の絶唱~「歎涕和歌集」

 幕末の志士たちは多くの詩歌を残した。
 中には一首だけ残されている人もある。たくさんの歌を残した人もある。そのいずれもが、国を思い人生をかけて短い命を駆け抜けた絶唱なのだ。漢詩も沢山残されているが、現代の我々にとっては、漢文の素養が著しく衰退していることもあり、容易には取り付くことが出来ない。しかし、和歌ならば、中学程度の古語の文法を思い出すだけで取り付くことが可能であろう。130余年前の人々の心を、和歌を通して直接感じ取ることが出来るのである。
 明治維新以後、敗戦まで、多くの志士遺文集や詩歌集がつくられた。しかし、今では殆ど目にする機会がない。
 ここに紹介する「歎涕和歌集」は、慶応三年に志士に最も近かった人の手により編纂されたものであり、様々な間違いも指摘されるが、同時代の人の手に成ったという意味でも貴重な歌集であると思われる。第一篇から第四篇に分かれているが、その全編を、分割して紹介して行きたいと思う。そのつど、余計ではあるが、感想なども添えるかもしれない。

 今回は、序文を紹介したいと思う。


歎涕和歌集序

いにし安政のころより此のかた、大皇國のために大和ごころを盡して、なかなかにあらぬ罪に行はれ、あるはひと屋の中に欝悒しく年月をおくりて、遂におひはなたれなどしたる人々、其のかずかぞふるにいとまなきをば、こころあらむ誰の人かはあはれと称へ、かなしとは思はざらん。かしこくも今天のしたの大御まつりごと、よろづいにしへのただしき道にもとづかせたまふおほん時に、あひたてまつるにつきても、かかりけむ人々らがはやく身をつくし心を盡しし功勳なからましやはとさへおぼゆるかたありて、さらにくちをしくもまたうれしうなむ。さるを此のころ、土佐の殿人宮地維宣ぬし、その事のあとをうれたみ、彼の人々の中に、事につき時にふれて云ひ出でけむことの葉どもの、かつがつちり残りたるを拾ひ、歎涕和歌集と外題して世に傳へらるる事は、せめてその人の霊を慰め、かつは今より後の人のいよいよ皇國のために、赤心を盡さんもとゐにもがなと、物せられたるふかき心しらひにして、尋常の集どものよくととのひて、おもしろきをむねとえらびたらん物とはいたく事かはりためれば、歌のうへのよしやあしやはおきて、唯そのよみ人らのををしき大和だましひを思ふべきにこそ。

慶應三年十二月つごもがた 平 忠秋誌

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2005/05/01

大亜細亜悲願之碑について

大亜細亜悲願之碑

「激動し変轉する歴史の流れの中に
 道一筋につらなる 幾多の人達が
 万斛の思を抱いて 死んでいつた
 しかし
 大地深く打ち込まれた
 悲願は消えない

 抑圧されたアジアの
 解放のため
 その厳粛なる誓いにいのちを捧げた
 魂の上に幸あれ
 ああ真理よ
 あなたは我が心の中に在る
 その啓示に従つて
 我は進む」
1952年11月5日
ラダビノード・パール

※広島 本照寺内

 「ベンガル語の慰霊詩文は 東京軍事裁判でただ一人真理と国際法に基づき日本の無罪を主張し原爆投下の非人道性を指摘したインド代表判事パール博士が 昭和二十七年の秋来広の際 斯の碑建立の趣旨に共感し半日瞑想推敲して揮毫されたものである 亜細亜の民族運動と戦禍にたおれた満蒙華印等動乱大陸の多くの人々の面影を偲び浄石にその名を記し石窟内に奉安 有志恒友相倚り碑を建立した慰霊の式典をかさねること三十三回 昭和四十三年五月 恒友協力浄域を整え再建す 日文源田松三筆 英訳エ・エム・ナイル 碑銘大亜細亜は宮島詠士先生遺墨に依る」

 「大亜細亜悲願之碑」について

「抑圧されたアジアの解放のため その厳粛なる誓にいのち捧げた魂の上に幸あれ ああ真理よ あなたは我が心の中に在る その啓示に従つて我は進む」―大亜細亜悲願之碑に寄せられた、このパール博士の詩文は、広島の原爆中心地に建つてゐる原爆記念碑の「安らかに眠つて下さい 過ちは繰り返しませぬから」といふ碑文に対する、心からの反証でもあつたと思ふ。このことは、以下に引用する保田與重郎先生の一文により、一層明らかになるであらう。
「(前略)アジアの回復といふ聖なる目的のため戦つた心は、今も天地に恥じない。戦争に突入しないためには、日本は実質的にアジアの国々を、西洋に売り渡さなければならなかった。(中略)米英ソの三国が日本人の頭上に投じた原爆も、彼らが植民地の住民に見せつけるために行つた戦争裁判という惨虐な日本人殺害も、アジア人の独立を阻止し得なかつた。彼らがアジア人の頭上に試みた原爆の残忍な殺戮を、アジアの独立精神、人道の正義感は少しも恐れなかつたのだ。(後略)」〔明治維新とアジアの革命『新論』(新論社)昭和三十年七月・創刊号〕


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 この本文は、すべて「大東亜戦争殉難遺詠集」から採りました。

同書敢行会が、大東亜戦争殉難者の遺詠を編むに当たり、採った写真8枚の内2枚までがこの碑に宛てられています。

 その理由は、上記の解説によって明らかですが、大東亜戦争が、やはりアジア解放という側面を色濃く持っていたこと、大東亜戦争で無くなった将兵二百万の英霊を慰めるためには、戦いの意義について、確認する必要があった、ということなのだろうと思われました。

 昭和五十一年、終戦から三十年という節目の年に敢行されたこの書は、大東亜戦争を戦った国民が、三十年という内省の期間を経て辿り着いた一つの結論であるとも言えるかもしれません。

 保田與重郎氏が序文を寄せられています。

 「この本は、声高にわめき叫んで世にひろめる本でなく、しづかに黙して人に手渡すべき本である。人がこれを手にうけて読み始め、感動に心うたれ、止む時のない本である。醇乎とした誠心が、絶対境で歌はれてゐるからである。文芸の巧拙の技は一時の流行のものにて、誠心絶対境の詩文は、永遠不易であるとの理を示すものである。戦後三十年、その間に於て、この集こそ、わが国の歴史を通じて最も尊い詩歌の本にて、また最もかなしいわが文学の書である。その日多くの若い兵士は、かくまでに烈しい志と、美しい心を歌ひあげてゐるのである。
 その若者の心をかなしむわが国人の心は、永劫にこの国をかなしむ心である。彼らと相擁して、何を語るべきか、何をなすべきかと、我を忘れ、世界を忘れ、生死と時間を失ふ、この心が我が遠御祖の丈夫ぶりと称え来った、かぐはしき明き心だったことを、泪を垂れて人は悟ることである。ここに於て悠久の大義は、明らかに光輝まばゆい実体である。
 大東亜戦争を戦ったわが若者たちは、勇敢な気性と、温健な教養をかねてゐたばかりか、繊細優美な感性に特にすぐれてゐたのである。この大東亜戦争殉難烈士遺詠集は、その事を教へ、教へられた者の心は千々に砕けるのである。」

 終戦から60年。30年前に行われたこの事業を顧みることは、何か意義のあることではなかろうか、そう思い、これから、順次、8月15日の終戦記念日に向けて、「大東亜戦争殉難烈士遺詠集」を中心に、当時の若い将兵の心を偲んで行きたいと思います。

 そのはじめに当たって、広島の大亜細亜悲願之碑の精神を、改めて世に広めたいものと、痛感した次第です。

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