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2008/06/12

素晴らしきかな、江戸の先人 ~貝原益軒 「大和俗訓」を読む~

 貝原益軒の「大和俗訓」が岩波文庫から出ている。

 ずっと以前に入手していたが、中々読めないでいた。

 ふと、手に取り、読み出してみたら、面白い。

 吉田松陰の「講孟余話」に通じる内容が、更に分かりやすい文章で書かれている。

 
 「学問の道は心をむなしくし、へりくだり、よくしれることをもしらざるが如くにし、能く行ふことをも行はざるが如くにし、我が才と行とにほこらず、わが智を先だてずして、人に問ひ、人のいさめを聞き用ひ、我が過を改めて善にうつるべし。かくのごとくすれば、学問の益あり。善にすすむこときはまりなし。もし自らほこり、我を是とし、人を非とし、人の諌をふせぎ、我が過をきく事をきらはば、才学に長ずるにしたがひて、その心あしくなりて、学問の益なきのみにあらず、かへりて害となるべし。是れ己が為にせずして人のためにする故、君子儒とならずして、小人儒となるなり。かくのごとくならんは、学ばざるにおとれり。」

 それほど難しい文章ではないと思うが、以下、自分なりに現代語にしてみる。意味毎に原文にはないが段落をつけてみた。

「学問の道は、心をむなしくして、へりくだり、自分がよく知っていると思っていることも、よく知らないようにして、また、自分がよく行っていると思っていることも、よく行っていないようにして、自分の才能や自分の行いを誇らずに、自分の知識を先立てるのではなく、人に教えを乞い、人が諌めてくれる言葉を聞いてそれを用い、自分の過ちを改めて善に移っていくべきである。このようにすれば、学問をして益があるだろう。善に向かって進んでいくことはこれでよいということはない。

 もし、自分に慢心して誇り、自分こそが正しく、他人は間違っているとして、人が諌めてくれる言葉にも耳を塞ぎ、自分が間違っていると聞くことを嫌がっていたならば、勉強を積み重ねていけばいくほど、その心根は益々悪くなってゆくであろう。それでは学問をする益がないばかりか、却って害となるのである。

 このようになるつてしまうのは、自分の身を正し自分の身を善に移すために学問をするのではなく、他人を批判し評価して裁くために学問をするからであって、君子の学問ではなく、小人の学問となってしまうのである。

 このような学問ならば、学ばないでいるよりも人間として劣るだけであり、しないほうがましというものだ。」

 一読して、冷や汗が出る。

 果たして、今は、この小人儒全盛の時代である。

 かくいう自分も、他人を責めることには急で、自分を責めることには緩やかだ。

 学問は、自分の姿で伝わらなければ、本物ではない、といふことである。



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