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2006/04/14

残櫻記(21)

〇南朝の天皇たちの御事をさし、其龍孫云々とは、其皇孫と坐す尊秀王、いま大河内の宮に坐ます由なり、早錦幡下に参云々、天気之オ趣如此矣とは、、前皇の御志を継で、錦の御幡を揚て軍人を招し給ふ、速に宮方に参るべきよし、すべて皇僭(きみころひ)てのたまへるなり、乙亥は事実を推考るに、康正元年に当れり、しかれば本文に記せるごとし、嘉吉三癸亥年南方にて、私に天靖十三乙亥年と書せ給はほしくおぼしたりけむが、しかすがに南方私の年號なれば、世に聞知るべくもあらず、されど時の年號を用ひ給はむ事も、はたくちをしくて、干支えとのみをものし給ひけるなるべし、そもそも此御企こともとより大義おおきことわりにそむきたる挙(こと)ながら、此宮のおもひつめたる真意(まごころ)のほど、此令書の文にもあらはれて、いとあはれにぞきこゆるかし、又これも紀伊国那智山、実方院に藏傳たる、忠義王の御名署(みながき)せる御願書に、立願之事」、一御遷宮之事、」御領寄進之事」、一毎年御代官を以て、参詣有る可き事」、一御劔」、一神馬」、右所願成就之時其成敗有る可き者也、」乙亥七月十八日」、忠義(花押)、熊野権現那智御寶殿前」、とありとぞ、此はかの色河一族に御書を賜ひたる同年の前月にて、是も乙亥と干支のみ記し給へるは、同じ御心おきてとぞきこえたる、これもまたおもひ合すべし、さて件の御願文を案かんがふるに、これも尊秀王のなるを、忠義王の奉りてものし給へるなり、

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