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2005/05/27

残櫻記(9)

然るに武家はますます威権いきほひを恣に振ひて、上皇を始奉り、南方の宮々を蔑如にしまゐらせ、(そのかみ、南朝の王子たちの、あくがれておはしませるを、南方宮と申し、その宮たちに、心よせて仕へまつれるものどもを、南方の人といへり、)何よりも重き御契約に違ひて、上皇の皇子を立太子の御事もなく、また其方ざまの武士をばあるにもあられず、なほ仇敵のごとくにさへもてなしければ、宮々も御憤あり、武士どももいよよ怒を益して、ともすれば宮たちをとり立奉らむ、と企つる意の止難やみがたかりつるほど、武家より計らひ奏すに依て、応永十九年八月廿九日、後小松天皇、皇子躬仁親王の、僅に十二歳にならせ給ふに、御位を譲らせ給ふ、これ称光天皇の御事なり、(後亀山天皇吉野より遷幸坐まして、御和合御譲位の十年に当たれる、応永八年三月降誕ましまし、同十八年十一月、十一歳にて、親王になされ賜へりき、)こはかねての重き御契約を違へ給ひたる御事なれば、南方の宮々をはじめ武士ども、また更に憤る事大かたならず、さるほどに同卅一年四月十二日、後亀山天皇崩り給ひにき、(明徳三年より卅一年、)その後正長元(戊申)年七月廿日、称光天皇崩り坐して、(在位十六年)皇子おはしまさざりければ、此度こそ御契約のごとく、後亀山天皇の第二皇子小倉宮、御位を継ぎ給ふべけれ、さらずば此宮の皇子もおはしませばとたのみありておもひたるに、又しも武家の計らひとして、殊さらに持明院殿の御支流(みすゑ)をたづねて、伏見宮貞成親王の第一宮のわづかに十にならせ給ふを取立参らせ、後小松天皇の御養子とし給ひて、親王にだにせさせ給はぬを、同廿八日ただちに御位に即け奉られにき、是御花園天皇の御事なり、

 注・此時小倉宮、安からずおもほしめし、御子尊義王を御位に即け給はむ御慮にて、其御子を牽て伊勢国に下り、国司北畠の満雅朝臣と謀りて、軍を起し給ひしかど、満雅朝臣討死せられたりければ、力なく御和睦ありて、御父子再嵯峨に帰り給ひぬ、さて其御子某王は、後に勧修寺に御入室ありて教尊と申し、大僧正に任なされ給へりき、

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