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2005/04/02

「残桜記」にふれるまで

 「残桜記」の存在を始めて知ったのは、いつのことだったか記憶も定かではありませんが、南北朝について初めて勉強したときのことは良く覚えています。大学一年の秋、吉野の地で行われた研修合宿がそのはじめでした。吉水神社に、後醍醐天皇の御座所であったというところを拝観させて頂いたり、後醍醐天皇御陵を参拝したりしたことは忘れられい印象があります。あれから折にふれては南北朝の歴史について学んできました。遅遅とした歩みでそれほど深まったとも思えませんが、南朝の悲史はひたひたと心に染み入って行きました。

小堀桂一郎氏が、南北朝の歴史をどのように見るかを見れば、その歴史家の立場が解る、という意味のことを言われました。

最初、全く初耳の事ばかりだったことを記憶しています。高校までの教育の中では、後醍醐天皇も楠正成も全く印象に残っていませんでした。日本の歴史は大学に入ってから再度学び直したといって間違いありません。

保田與重郎先生の「花のなごり」の印象から、「残桜記」の原文のコピーを手に入れて、読んだのでした。そのときのコピーが出てきました。

寿永の変のことは前ではなく、後で付録として書かれていました。

森田康之助先生が著わされた「湊川神社史」や、その他の論文の印象も深いものがある。今つぶさには思い出せないが、日本歴史への参及の心組みは、先生から教わったことが多かったようです。森田先生には「伴信友の思想」という本があります。

伴信友という国学者は、平田篤胤と並び称される本居宣長門下の俊秀でした。両者の性格は全く違い、ある時点で袂を分かつようなかたちになったようです。人間離れした博覧強記を強みとした平田篤胤翁と、学究肌の伴信友では同じ道を行くことは出来なかったに違いありません。しかし、実証主義の学者が賞賛する信友の緻密な論考も、冷静客観精神の現われではありません。歴史の魂に触れたいという強烈な情熱なくしてその仕事は有り得ませんでした。そこが今の学者と根本的に違うところです。学問は道であり、人間としての生き方を求めることが即ち学問でした。

こんな物言いは、小林秀雄氏や森田先生からの口真似に過ぎませんが。

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