2009年6月21日 (日)

古風な、と言われても

 「嫁を取りたい」といったら、スナックの女性に、鼻で笑われた。「何時の時代の話よ」とつぶやかれた。

 そんなにおかしなことを言った覚えはないのだが、この連中はすぐに別の席に移ったので、それ以上お互いに不愉快な思いはしなくて済んだ。

 「嫁」といっても、自分の場合は、本当に、来ていただくというかなり謙った感じなのだが、それでも、「嫁」という言葉自体を死語扱いする若い女性の存在にお目にかかったのには参った。

 「結婚」ということも、「死語」なのかもしれない。

 しかし、真剣に考えるようになって、改めて痛感したことといえば、当たり前のことかもしれないのだが、「結婚」とは、「覚悟」と「責任」以外の何者でもないということだ。

 いい加減に生きることが許されない。昔は、結婚していない人は男であれ女であれ、一人前と見做されなかったことの意味はここにあるのだろう。人間は、自分以外の人やものに責任を取るように覚悟を決めて初めて一人前と言えるのだ。

 これは独身でいるよりも相当に負担であると思われる。しかし、鼻をつまんで人生の傍観者になるのと、どんな困難でもぶち当たって、それにもがき苦しみながらも溺れそうになりながらも、必死で進んで行く人生と、一体どちらが死んで棺おけの蓋を閉めるときに、安心して死ねるだろうか。

 今は人生80年が普通なのかもしれないが、先日、恩義のある方が53歳でなくなられた。また、大恩ある方が87歳で往生された。続けてのことだったが、色々と考えさせられた。恩義ある先輩の年まで、自分の残された時間は余り多いとはいえない。

 結婚するなら早い方が良い、ということを、最近つくづく思うようになった。自分の場合は全く持って手遅れなのではあるが、できれば20代半ばまでには、伴侶を定めるのが良いのだと思われる。一つには、子供の問題がある。若くてエネルギーの溢れているうちに子供を育てた方が良いに決まっている。25歳で生まれた子供なら、45歳の時には成人しているのだ。働き盛りの45歳の時に成人した子供がいることがどれほど頼もしいか、計り知れない。今の自分からは、見果てぬ夢となってしまったことではあるが、それは自分の選んだ道であるから後悔するわけではない。ただ、気付くのが遅かったということと、自分の生き方がそちらに向いていなかったということに過ぎない。

 なぜ、「結婚」ということを考えだしたのか。実のところ、10年前に本当に思う人がいた。色々あってその人は別の人と結婚した。それ以来、心に大きな穴が空いてしまい、どこかこの世から一歩後退した場所に身を置いていた。今から思えば、ちょうどその頃、今思う人には出会っていた。実のところ、初めて会った時に、直感的に、「この人と結婚することになるのかな」などと思った。その直感は大変淡いもので、当時それ以上思うことはなかった。それから、6年になるが、この間色々な経緯があり、つかず離れずの関係を保っていた。
 そのバランスを崩したのが今年に入ってからで、自分の気持ちが少しづつ明確な形を取り始めたのである。それがどうしようもないところまで固まるのに3ヶ月はかかり、それが確固不動のものになるのに更に一ヶ月を要した。それで、気持ちをきちんと伝えないといけないと思った。

 こんなことを書いていながら、今結論が出ているわけではない、少なくともまだ数ヶ月の時間は必要だろうと思う。自分にとっては、ただ一人の人であり、誰かの代わりでもなければ、誰か代われるものでもない。自分にとっては世界一の人であり、この人を置いて他には考えられない。そういう思いを抱ける人に出会えたことだけでも、本当に感謝しなければと思っている。そして、自分の弱い心をたたき直していかなければと思っている。「自分の人生に真っ向から向き合う人が人生の成功者だ」と誰かが言っていたが、自分も、この思いから逃げることなく、しっかりと向き合って行きたい。真剣勝負である。その最大の敵はやはり自分自身であると、つくづく思わされる。

 その人は、今、修羅にいて、戦っている。そして、 その戦いに、自分は何の力にもなれない。

 一方、自分も戦いの巷にあって、自分の戦場があり、そこで多正面作戦を展開している。別の修羅場である。

 この人生において、自らに課せられた使命を実現するために、あらゆる意味で、自分の半身たる人を、今、心から得たいと思っている。

 

 
 

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2009年5月12日 (火)

小沢辞任!

 昨日午後、民主党代表だった小沢一郎氏が代表を辞任した。

 「政権交代」のため、というが、ならもっと早く辞任すべきであったろう。

 自民党内の左派の問題も深刻であり、国益を損なうという意味では最も危険な因子は、自民党内左派にあるといってよいのだが、民主党政権が実現したとなれば、同様の構図が更に深刻な形で露骨に出てくることは明白だ。

 外国人参政権を実現するために、「涙を呑んで」帰化し、元在日の民主党議員がいる。合法とはいえ、これは有る意味脱法的な存在といえるだろう。そのような例がゴマンとあるのが民主党であり、恐ろしくてとても政権交代など実現してもらっては困る。

 確かに自民党内に、腐敗堕落はあるだろう。しかし、同じ体質を民主党が持っていることを露呈したのが小沢代表の今回の事件である。考えてみれば自民党の金満体質をつくりあげた田中ー金丸のラインの上に政治家として歩んできた小沢氏なら、気付かないほうがどうかしているのだが。

 現代日本の不幸は、真に日本の国益を中枢に据えて行動する真の保守政党が不在であることだ。自民党内と民主党内の一部、そして無所属の議員の中にそれぞればらばらに存在しており、真の保守政治の大きな流れを作り出せていないところに深刻な問題がある。

 政党は「政治理念」よりも、「票」と「金」で動く、と見られても仕方がない。現にそのような構図になっている。

 皮肉なことに、「政治理念」を明確に掲げるのは、たとえそれが欺瞞の塊であろうとも共産党くらいなものなのだ。社民党はとっくの昔に責任政党として破綻しているので敢えて無視する。自国に向けられたミサイルを擁護するのでは最早日本の政党ではない。北朝鮮労働党日本支部と看板を架け替えるのがよいだろう。もとより共産党は「日本」の政党ではない。革命を旨とする政党である。

 自民党が官僚の骨がらみになってしまっており、「官僚内閣制」といわれるような状況の下にあることは事実だろう。しかし、それを打破しようとした安倍内閣を徹底して叩き潰したのはマスコミであり、それに乗せられた一般国民であった。

 年金問題においては、泥棒が、泥棒を捕まえられなかった警察を糾弾するというようなおかしな構図になったことは記憶に新しい。事ほど作用に、政治の汚らしい側面というには余りにも没義道なことを平気でするのだから何をかいわんや。恐るべき人間性の退廃というべきだろう。

 民主党がいかなる「顔」を選ぶのかについては、真剣に見定めなければならないが、この民主党の亡国没義道体質を変革する意志を個々の民主党議員が持つかどうか。そのためには裏方に忍び込んでいる、隠れ共産党員や、過激派を一掃することからはじめてはどうかと思われる。そんな時代錯誤な、と思う向きもあるかもしれない。しかし、政治の裏面など、人間性の醜い一面など、そう変わるものではないと同時に、現代は、その醜い一面を極限まで推し進めてしまった時代という一面が確かにあることは肝に銘じておくべきなのだ。

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2009年5月 8日 (金)

なぜ謝る!? 麻生首相! 子供二人、義務果たした、と言って何が悪い!!

【麻生首相ぶら下がり詳報】「子供2人で義務」発言は「不適切で撤回しておわびする」(7日夜)
2009.5.7 20:22

衆院予算委員会で菅直人・民主党代表代行の質問に答える麻生太郎首相=7日午後、国会・衆院第一委員室

 【衆院予算委の撤回答弁】

 --今日の衆院予算委員会で、子育て問題について、首相は「私はちゃんと子供が2人いましたから、一応最低限の義務は果たしたことになるのかもしれません」と言った…。
 「(予算委で発言したのは正しくは)『2人産みましたからね』。うん。あの、それは発言が適切じゃないと思って、その場で撤回したと思います」
 --あっ…
 「それで、不愉快なご迷惑をかけた方がいらっしゃるなら、と言って、おわびしたと思いますが」

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確かに不妊症の女性もおられるだろう。独身で通してる人もいるだろう。DINKSを謳歌してきた人もいるのだろう。


多様化というもっともらしい理屈がつけられるが、狭い了見でしかない。

50年100年単位で物事を考えるならば、成り立たない考え方であり理屈である。

次の世代を育てる責任が、最低限人間にはある。

「産めない人もいるから」というのは理由にならない。その人のことを言っているのではないからだ。


およそ、マクロの考え方と、ミクロの考え方は、全く違うことが多い。

インフルエンザの大流行でたくさんの方々が死ぬかもしれない。個々の人の死は、それに関わる人々の悲しみを誘発するもので、避けるための最大限の努力がはらわれるのは当然のことである。しかし、これを自然の摂理としてとらえることも可能なのだ。それによって人口調整が行われ、全体としては人類の永続に貢献している、との見方は決して暴論でもなんでもない。

ことほど左様に、マクロ的なものの見方とミクロ的なものの見方はすれ違うのである。

それを無理にいっしょくたにする議論が、こわばった言論空間を作り上げる。基本的に、頭の悪い人の考えであり、いっしょくたにしてはならない事柄を、あえていっしょくたにして、くそみそ一緒にしているのだ。

おそらくはわざとなのだ。こうしたことを繰り返すと、知能レベルの低下を招く。

論理的な考え方が不可能になるからである。

およそ没論理な感情論で、論理を蹂躙するのだから、ものを正しく考えるなど、できるはずもない。


男女二人が次の世代を育てる責任を自覚するなら、同数の二人を育てるというのは、あまりにもシンプルなごくあたりまえの、時代を超えて変わらない真実ではないのか。


頭の悪い人の、くそみそいっしょの屁理屈につきあう必要などないのだ。

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2009年4月29日 (水)

NHK 反日偏向番組「ジャパンデビュー」・悪魔的発想のおぞましい問題点

 この大じかけな、大上段に振りかぶった番組の予告を見て、見てみたいと思って、実際に見た。

 いろいろな問題点が指摘されているが、全体を通底する、計り知れない「悪意」の存在に、吐き気を催した。

 すべてを論じるヒマはないが、最もおぞましいと感じたひとつのことだけを指摘しておきたい。


 明治初年、ロンドンで開催された万国博覧会に日本が初めて参加したエピソードが紹介された。

 その中で、「人間動物園」というキャプションが躍った。

 そのネーミング事態がショッキングなもので、一瞬、目を疑った。

 その続きで、日本が、台湾の人々を、万国博覧会で見世物として「出品」したことが解説され、それは、イギリスがインド人を同じように「出品」したのに対抗し、「一等国」に張り合うためにそうした、と言わんばかりの取り上げ方だった。

 
 まず、「人間動物園」というネーミングは、当時のものではあるまい。植民地の原住民を見世物にすることは、腹立たしいことであり、今の感覚からして決して許されるものではないことは当然である。しかし、当時の世界にあって、それが当然のごとく行われていたことを考慮しなければ、きわめておかしいことになる。

 150年前の世界に、現在の常識をあてはめて断罪することに、何の意味があるのか。

 これは、「進歩史観」の最悪の適用であり、この色眼鏡によって「歴史の真実」は覆い隠されるしかない。単なる「偏向」よりもはるかにたちの悪い「悪意」である。

 それは、「Human Zoo」などという、下品な物言い、何となく、「1984」の世界を彷彿とさせるようなネーミングにはっきりと見てとることができる。


 ここまでならば、不愉快ではあるが、当時はそういう一面もあったのか、ということで済ませることもできる。


 ところが、NHKは、致命的ともいえる、人権侵害を行っている。それも気づかずに。

 この、「人間動物園」の写真に写った台湾の人の、子孫をわざわざ見つけてきて、この写真をつきつけ、あなたのお爺さんは、このような目にあわされたのだが、どう思うか、とカメラを向けて、問いただしたのである。


 もちろん、その台湾の方は、そんなことは初めて聞いたことで、絶句して声も出ず、ひどいことを、とお爺さんは何も言っていなかった、と目に涙をためて、深いショックを受けている様子だった。


 NHKは、「あなたの祖先は、日本によって動物扱いされていたんだ。それをどう思うか」と、突きつけたのである。この台湾の方に、日本への憎悪をかきたて、視聴する人々に対しても、「人道的義憤」を催させる仕掛けのつもりなのであろう。

 しかし、このようなことをやる資格が、NHKにあるのか。

 祖先を敬う心を持つ人々が、お前の祖先は、動物扱いされたんだ、と、恥部をさらけだされたのである。

 NHKのみならず、およそ人間であるならば、やってはならない所業である。


 150年前の日本がやったことも、褒められたことではなかったかもしれない。しかしそれは当時の世界の中で当たり前とされたことに則ってなされたことにすぎない。そこに、悪意が介在する余地はない。


 ところが、150年後のNHKが行った番組制作は、今の世界の常識に照らして、人道の基準に照らして、人権状況に照らして、明らかに悪意に満ちており、重大な人権侵害事件として見ることができる。


 他にも色々と指摘すべき点は多いが、このような「悪意」に貫かれた番組は、ほとんど暴力に近い。

 悪魔の所業といって過言でない。


 番組制作の意図は、日本の台湾統治を断罪し、否定することによって、大東亜戦争下に行われた民族独立工作とその成果にケチをつけることにあるように思われた。


 さらに言えば、親日的と言われる台湾と日本を乖離させ、ディバイド・アンド・コントロールしやすいようにする、中国の思惑が働いているようにも思われる。


 中国のやりくちのあくどさには恐るべきものがあるが、日本のメディアがどこまで冒されているのかを、厳しくチェックする必要があるのではないか。

 NHKは、今だにBBCが作成した「死のシルクロード」の放映さえ、していないのである。

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新型インフルエンザに負けるな

警戒されていた鳥インフルエンザではなく、豚インフルエンザにより、パンデミック・フルーが懸念されている。

フェーズ4の警戒段階が発されたが、まだ爆発的な感染ではない。

さて、素人に何ができるのだろう。ひとごみになるべく行かないこと、メキシコに行かないこと(いけないのでこれは安心>自分にとっては)、うがいをすること、マスクをすることなどなど、当り前のことしかない。

ある医者が言われていたが、体力のある若い人の方がむしろひどくなる危険もあるという。過信は禁物、ということだろう。

第一次世界大戦を終わらせたのが、スペイン風邪の流行だったという説があるくらい、ある意味戦争よりもひどいことになりかねないのが、感染症の恐ろしさでもある。

言ってしまえば、人類の人口調整ということなのだが、当人また係わりのある人間にとって生きるか死ぬかということは重大な問題だ。

適者生存の論理で割り切ることはできないが、先天的にかからない、またかかりにくい人々がいることも事実なのだそうだ。

今、自分が生きてあるということは、これまで祖先から続いて色々な山を越えてきた証拠なのだから、堂々としていればよいのだとも思える。

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